とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

ポイ捨ての定義

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル ポイ捨ての定義

 


今日、ポイ捨てを擁護する人はほとんどいない。

 


「ポイ捨てを解禁せよ」などと言おうものなら、「環境に配慮する」 人々から猛烈な“口撃”を受け、たちまち村八分にされるだろう。

 


マスコミは「アンチ・ポイ捨て」メッセージを公共サービスと称して垂れ流し、町内会やPTAや市民団体や宗教団体はポイ捨て反対で合意を結んでいる。

 


議論の分かれる問題を慎重に避けて通る映画業界も、ポイ捨てへの嫌悪にはなんの異論もないようだ。

 


価値観の多様化のなかで、ポイ捨する者は偉大なる社会の「統一者」なのだ。

 


しかし彼ら「反ポイ捨て派」の議論には、一見すると無意味な、ちょっとした問題がある。

 


それはポイ捨てが公共の場所でのみ生じ、私的な場所ではけっして起こらない、ということだ。

 


「ポイ捨て禁止」の看板は、高速道路やビーチ、商店街や公園、 地下鉄や公衆トイレなどでよく見かけるが、これらはすべて公共の場所である。

 


「ポイ捨ては公共の場所で起こる」というのは、たんなる事実の指摘ではない。

 


これはポイ捨ての定義なのだ。

 


もしもあらゆる面でポイ捨てにそっくりなことが私的な場所で起こっても、それはポイ捨てとは見なされない。

 


野球場や映画館、劇場、コンサート会場、サーカスのテントから観客が去ったあとに、椅子の間や通路に残されたものは「ゴミ」とか「クズ」とか呼ばれるが、ポイ捨てではない。

 


平日の夕方になると、掃除人たちが銀行や商店、レストラン、オフィスビル、工場などにやってくる。

 


彼らの仕事は「掃除」であって、ポイ捨ての撲滅ではない。それと同時に衛生局の清掃車が、公共の通りや公園をまわり、ポイ捨てされたゴミを拾っていく。

 


公共の場所にゴミを放置することと私的な場所にゴミを残していくことのあいだに、本質的なちがいはない。

 


どちらもやっていることは同じなのだから、一方のみを「ポイ捨て」と呼ぶ理由はない。

 


いずれの場合も、ゴミを出すことは生産や消費の過程の一部だからだ。

 


ポイ捨てをそのままにしておいて、あとから拾うのが最善の場合もある。

 


たとえば大工にとって、はたらいているあいだじゅう、木屑を拾いつづけるのは現実的ではな

い。

 


「ポイ捨てゴミ」である木屑を休憩時間や一日の終わりにまとめて集めて捨てるほうが、ずっと簡単で安くすむ。

 


もちろん工場主は「反ポイ捨てキャンペーン」を展開して、大工たちに自分の仕事場から木屑の山をなくすよう強制することもできるだろう。

 


一万円の罰金で脅して、規則を守らせることだって不可能ではない。しかしこの理不尽な規則のせいで大工たちが辞めてしまうかもしれないし、仮にそうでなくても、生産コストの急激な上昇で竞合他社に仕事をとられてしまうだろう。

 


その一方で、病院ではポイ舍ては许されない。

 


手术室や诊察室、処置室などは常に卫生的でな

くてはならないし、よく掃除されて塵ひとつあってはならない。強力な「反ポイ捨てキャンペー

ン」を実践できない病院は、患者たちのあいだで不衛生との評判がたち、経営者は財政的困難に追い込まれるだろう。

 


消費者相手のビジネス、たとえばほとんどのレストランでは、「反ポイ捨てキャンペーン」は実行されない。

 


レストランの壁に、フォークやナプキンやパン屑を落とすことを禁じる警告が貼ってあることはない。

 


ポイ捨てを禁じるのはレストラン経営者の自由だが、それでは客をほかの店にとられてしまうだろう。

 


これら一見してなんの関係もない例に共通していることは、市場においては、どのようなポイ捨てなら許すか(あるいは許さないか)は消費者のニーズが決める、ということである。

 


この問題はそれほど単純ではなく、「ポイ捨てを排除しろ」とだれもが叫んでいるわけではない。

 


感想

 


ポイ捨てが公共の場所でのみ生じ、私的な場所ではけっして起こらないという。

 


おもしろしい指摘だと思いました。

 


私的な場所ならいくら散らかそうが問題ないのです。自分の部屋とか車の中とかがいい例です。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

flier(フライヤー)