とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

売春婦は悲劇のヒロインか

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


売春婦を悲劇のヒロインに仕立て上げるのはだれ?

 


女性の権利を守る団体とか、宗教関係の方々とか、市民運動家のみなさんとか、世の中の良識あるすべての人々から際限のない嫌がらせを受けながらも、売春婦(売春夫)は今日も元気に商売に励んでいる。

 


彼ら彼女らが提供するサービスに高い価値があることは、法的な規制や道徳的な批判にもかかわらず、人々がソープランドやデートクラブにせっせと通っているという事実によって証明されている。

 


売春とは、「金銭を介した性的サービスの自発的な取引」と定義できる。この定義の本質は、「自発的な取引」、すなわち「好きでやっている」ということにある。

 


ちょっと前の話だが、わたしはノーマン・ロックウェル(1940~50)年代に人気を集めたアメリカのイラストレーターが描いたある雑誌の表紙を見ていて、「これこそ売春の本質だ」と得心したことがある。

 


それはミルクマン(牛乳売り)とパイマン(パイ売り)が相手のトラックの前でがつがつとパイを食べ、牛乳を飲んでいる絵であった。

 


この二人が喜んで「自発的な取引」を行っていることは、だれの目にも明らかである。

 


十分な想像力を欠いている人は、売春婦が客を楽しませることと、ミルクマンとパイマンの話のあいだにどんな関係があるのか、不思議に思うだけかもしれない。

 


だがちょっと考えてみてほしい。

 


いずれの場合でも、二人の人間が自らの意思で集い、お互いの利益を満たすべくある取引に同意している。

 


どちらの場合も、そこで強制や不正が行われているわけではない。

 


もちろん売春婦の客は、あとから自分の受けたサービスが支払ったカネに見合わないと後悔するかもしれない。

 


逆に売春婦が、提供したサービスの割に報酬が少なすぎると文句を言うこともあるだろう。

 


だが同じような不満は、ミルクとパイの交換でも起こりうる。

 


ミルクは腐りかけて済みっぱいかもしれないし、パイは生焼けかもしれない。こうした後悔はいずれも事後的なもので、「取引が自発的に行われた」という事実を否定するものではない。

 


もしも参加者にその気がなかったなら、そもそも取引は行われなかったであろうから。

 


「女性の権利を守る」と称する活動家たちのように、貧しくも虐げられた売春婦の苦境を嘆き、彼女たちの人生を屈辱的で搾取されたものと考える人々もいる。

 


しかし売春婦は、セックスを売ることを屈辱的とは考えていないだろう。

 


ビジネスの長所短い労働時間、高い報酬と短所(警

官の嫌がらせ、ポン引きに支払う仲介料、気の滅入るような職場環境)を考慮した結果、売春婦は自

らすすんでその仕事を選んでいるのである。

 


でなければ、つづけるはずがない。

 


もちろん売春婦の体験には、「ハッピーな売春」とはいかないさまざまなネガティヴな側面がある。

 


シャブ中になったり、ポン引きに殴られたり、あるいは売春宿に監禁されることもあるかもしれない。

 


だがこうした暗鬱な側面は、売春という職業の本質とはなんの関係もない。

 


脱走犯に誘拐され、治療を強制される医者や看護師だっているだろう。

 


シャブ中の大工もいるし、強盗に襲われる経理課長だっているが、だからといってこれらの職業がうさんくさいとか、屈辱的だとか、あるいは搾取されているということにはならない。

 


売春婦の人生は、彼女が望むほどによかったり悪かったりするだけだ。

 


彼女は自ら望んで売春婦になり、嫌になればいつでも辞める自由がある。

 


それではなぜ、売春婦への嫌がらせや法的禁止が行われるのか?

 


その理由を顧客に求めるのは間違っている。

 


彼は自らすすんで取引に参加している。

 


もしあなたに贔屓の女の子がいたとしても、その気がなくなれば店に通うのをやめることができる。

 


同様に、売春禁止は売春婦自身が望んだのでもない。彼女たちは好きでこの商売を選んだのだし、心変わりすればいつでも辞められる。

 


売春禁止に熱心なのは、この取引には直接の関係がない 「第三者」である。

 


時と場合によって、売春に反対する理由は異なるだろうが、そのすべてに共通するのは彼らが部外者だということだ。

 


彼らは取引に対してなんの利害関係も持たず、なんの権限もなく、無視されるのが当然である。

 


売春問題に彼らの介入を許すのは、ミルクマンとパイマンの取引に通りすがりの者が口を出すのを許すのと同様に、馬鹿げている。

 


ではなぜ、この二つのケースは扱いが異なるのか?

 


「上品に食べよう会」と名乗るカルト集団が存在するとしよう。彼らは「パイとミルクをいっしょに食べるのは神への冒漬である」とかたく信じている。

 


もし仮に「反パイーミルク同盟」と「反売春同盟」がまったく同じ学問的価値―と言ってもなにもないのだが―を持つことが示されたとしても、両者に対する反応は異なったままだろう。

 


「反パイーミルク同盟」は世間の冷笑を浴びるだけだろうが、売春禁止を主張する人々はずっと寛大な扱いを受けるにちがいない。

 


ここには、売春問題を知的に理解することを頑強に阻むなにかがある。

 


感想

 


たしかに、第三者が口を出すことでもない問題ではあると思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

flier(フライヤー)