とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

電波が届かないとパニックになる?

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 人間関係から圏外化される被害者

 


近年、携帯電話のディスプレイに圏外表示が出ると、強い不安感からパニックになると語る若者がしばしば見受けられる。

 


ケータイ端末に備わった諸々の機能には単体で使えるものもあるが、多くの機能は基地局に電波で接続されて作動するものだから、当然といえば当然なのかもしれない。

 


しかし、パニックになると大仰に語るその不安感の強さには、いじめの主戦場が、学校の教室や近所の遊び場といったリアルな空間から、ネット上のヴァーチャルな空間へ移行してきたという事実を反映している側面もあろう。

 


現在の若者たちは、携帯電話を介して日々の関係を営んでいる。

 


常時接続しあい、互いの意向を確認しあっている。

 


したがって、その端末に表示された圏外の文字は、人間関係の圏外へ自分が出てしまったことを意味してしまう。

 


そして、常時接続された人間関係のネットワークから一時的にでも外れると、みんなに不快さを与える存在として自分が位置づけられ、いじめの標的にされる危険性が急激に高まることになる。

 


いじめる側からすれば、相手が圏外に出れば、ヴァーチャル的にも目を合わさずにすむからである。

 


だから彼らは、電波が届かない状況を単に不自由だと表現するのではなく、パニックになると大仰に形容するのである。

 


互いの対立点が顕在化することを忌み嫌う人間関係のもとでは、先ほど述べたように、あからさまな暴力は、たとえそれが心理的なものであっても、できるだけ回避される。

 


その点で、ネット上で被害者をいじり回す行為はきわめて都合がよい。ネット上では、相手と面と向きあう必要がなく、匿名性を保ちやすい。

 


しかも、非同期のコミュニケーションが可能なために、相手をいたぶることに対する心理的な抵抗は低くなる。

 


にもかかわらず、ディスプレイ上にはレスが引き続いて表示されるから、あたかもみんなが同時に盛り上がっているかのような錯覚が生まれやすい。

 


濱野智史が「擬似同期」と呼ぶこのネットの特徴は、集合的な沸騰状態を作り出すのにきわめて都合がよい。

 


ネットを介していじめる側は、共同行為を通じて大いに盛り上がることができる。

 


しかし、彼らは決して被害者の目を見ていない。

 


このような意味において、今日のいじめは、まずもって人間関係の維持を志向したものである。

 


加害者たちのまなざしは、つねにグループの人間関係の圏内へと向けられており、被害者を忌み嫌ったり、排斥することは関心の対象ではない。

 


少なくとも主観的には、それを意図していない。

 


かつてのいじめとは、そのまなざしの向きが反

転しているのである。

 


しかし、その加害者たちの共同行為が安定して続くことはない。

 


彼らの関係それ自体が、共通の地平を欠いた不安定なものだからである。

 


その関係の不安定さをいじめの混沌さによって紛らわせ、その感覚を共有することで気分も盛り上がるが、それは一時的なものにすぎず、かつての猫いじめがそうであったように、熱狂はすぐに冷めてしまう。

 


彼らは、不安定な人間関係のなかを絶えず漂っているだけである。

 


だから、今日のいじめには継続性が見られず、次なる刺激を求めて、標的を変えていかざるをえないのである。

 


感想

 


携帯の電波が、届かないとパニックになるという指摘がおもしろいと思いました。

 


そういう場所がいかにも秘境であることを強調するテレビと比べるとよりおもしろいと思いました。

 

 

 

下記の本を参考にしました 

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ