とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

昼休みは友達と一緒でなければならないのか

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題  

 


コミュニケーションの自発性という罠

 


近代社会において、平等とともに重視されてきた理念は自由である。

 


他者との付き合いの場においても、強制されないことが理想とされ、自由意思での参加が尊重されるべきだと考えられてきた。

 


とりわけ多様性が重視される現代では、画一的な規範の押し付けは忌避され、自発性に基づいたコミュニケーションが強く志向される。

 


自由が抑圧され、特定の思想が強制された過去を振り返ってみたとき、たしかにそれは正当な理念だろう。

 


しかし、自発性に基づいたコミュニケーションは、その結果に対する責任も生む。

 


自由を享受できるだけのコミュニケーション能力

を備えた人間にとっては、たしかに現代はユートピアかもしれない。

 


しかし、十分にその能力を持ちあわせず、その代償としての責任を耐えがたいと感じてしまう人間にとっては、かつてE. フロムが鋭く指摘したように、同時にディストピアの色彩も帯びていることを忘れてはならない。

 


にもかかわらず、今日の若者たちのあいだでは、他人とうまくコミュニケーションをとれず、親しい友人を作れない人物は、スクール・カーストの底辺に位置づけられ、可哀想で「痛い人」と見なされやすい。

 


そのプレッシャーがあまりにも強いために、たとえば学校で昼食を一緒に食べる相手が見つからないときは、周囲からの突き刺さるような視線を避けようとして、トイレの個室ですばやく食事を済ませたりするという。

 


彼らはこれを「便所飯」と称する。

 


つねに友だちと一緒にいなければならないことが、望ましい人間であることの規範と化しているのである。

 


このように、自発的であることに対して強いこだわりがあると、コミュニケーション能力を唯一の基盤とした自尊感情を守るために、いま属している人間関係が自ら望んだものだと思い込まなくてはならなくなる。

 


したがって、たとえ自分がいじめの標的にされた場合でも、その状況をストレートに否定することは難しくなってしまう。

 


たとえ被害の当事者であっても、いじられキャラの役割を仲間から期待されているのだと思い込もうとし、いじめの深刻さを一様には感受できなくなってしまう。

 


ここには、自らの被害の深刻さを自覚しづらい DV 被害者と同じ心理的カニズムが働いている。

 


感想

 


つねに友だちと一緒にいなければならないことが、望ましい人間であることの規範と化しているという指摘がおもしろいと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ