こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 今日のいじめに見られる一般的な特徴
文科省によるいじめ定義の変遷は、当初の定義がいじめの実態をとらえ損なっていたというよりも、むしろいじめの実情のほうが、この四半世紀のあいだに大きく変容してきたことを物語っている。
従来の定義において、いじめを認定する基準であった「一方的」「継続的」「深刻な」という3要件は、いずれも今日のいじめの一般的な特徴とはいえなくなっている。
むしろ、それらを欠いていることこそが、今日のいじめのもっとも大きな特徴だといってもよい。
今日のいじめにおいては、その加害者と被害者の関係が、従来のように一方的なものではなくなり、時と場合に応じて両者の立場が入れ替わりやすい流動的なものへと変質している。
被害者の立場に置かれる生徒は、あたかもロシアン・ルーレットのように気まぐれに次から次へと転移していき、固定化されることはむしろ稀である。
そのような状況下であえて加害者を特定しようとすれば、場合によっては生徒全員ということにもなりかねない。
今日の被害者も、明日にはいじめの標的が他の生徒へと移って、今度は加害者の側へ回っているかもしれないからである。
また、昨今の学校現場では、クラスが一つのまとまりとして成立しづらくなっている。
数人程度の小さなグループの内部で人間関係が完結してしまい、クラス全体の統一性が保たれにくくなっている。
授業中においてすら、ある生徒がした質問をクラスのみんなで共有することができず、まったく同じ内容の質問を別の生徒が直後に繰り返したりするという。
相互の交通手段を欠いた離れ小島のように、それぞれのグループが孤立したままクラスという大海に点在している。
そのため、いじめの場面も状況に応じて刻々と変化し、継続性を欠いたアドホックなものになっている。
さらに、今日のいじめには、遊びや悪ふざけとの境界がはっきりしないという特徴も見受けられる。
外部から眺めていると、生徒たちの振る舞いのどこまでが遊びで、どこからがいじめなのか見当が
つきにくい。
いじめと遊びの違いがわかりづらいというだけでなく、たとえば「いじり」のように、ときには被害者の側もその行為を楽しんで戯れているように見えることすらある。
自分がいじめの標的にされることの苦痛と、いじりの対象として注目されることの快楽のあいだで、あるいは加害者たちから逃れて人間関係を失うことの恐怖心と、たとえ加害者とでも他者とつながっていることの安心感のあいだで、当事者ですらも被害の深刻さを一様には感受しづらくなっている。
感想
マスコミでの報道をすべて信頼しているわけではないですが、このいじめの特徴に関しては、信頼していいと思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ