こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 ソクラテスの教室
「教える/学ぶ」コミュニケーションの事例をあげよう。
対話篇『メノン』でソクラテスと対話してきたメノンはこう述べる。
「ソクラテスお会いする前から、かねがね聞いてはいましたあなたという方は何がなんでも、みずから困難に行きづまっては、ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。
げんにそのとおり、どうやらあなたはいま、私に魔法をかけ……行きづまりで途方にくれさせてしまったようです」『ソクラテスのダブルバインド』でこれを引用する矢野智司は、ソクラテスはダブルバインドをしかけ、対話者を「絶体絶命」に追い込むという。
対話者は観客に囲まれた対面状況から逃げ出せず、追いつめられていく。
この対話の冒頭でメノンはソクラテスに「徳は人に教えることができるか」と問いかける。
ところがソクラテスはすぐ「ぼくは、教えられるか教えられないかを知っているどころか、徳それ自体がそもそも何であるかということさえ、知らないのだよ」と語り始める。
メノンはさまざまな「徳」の例をあげるが、ソクラテスは共通の定義を求め、「美しいものを欲求して獲得する能力」とメノンが答えると、それは「不正な仕方でも」徳かと問うて「正義をともなって」でないといけないことを引き出し、だが「正義」は「徳」の一例でなかったかと応じて、さきの「行きづまり」にメノンを直面させる。
メノンはソクラテスの「善きものを不正な仕方で獲得するとして、やはりそれを徳と名づけるかね」との問いに「むろんそんなことはありません」、「正義とは、君の主張では、徳の部分にほかならないのだろう」に「そうです」、と答えるうちに、当初の「徳は教えられるか」の問いや「徳」の定義とは両立できない居心地の悪い場所に連れていかれてしまう。
だが次の点は異なるだろう。メノンの嘆きの直後、ソクラテスはいう。
「ほくは、自分では困難からの抜け道を知っていながら、他人を行きづまらせるというのではない……。
道を見うしなっているのは、まず誰よりもぼく自身であり、そのためにひいては、他人をも困難に行きづまらせる結果となるのだ。
徳とは何であるかということは、ぼくにはわからないのだ。君のほうは、おそらくぼくに触れる前までは知っていたのだろう。いまは知らない人と同じような状態になっているけれどもね。
教師が「私は知らない」といい、「徳を知っている」生徒を「まだ知らない」地点に動かしてしまう。
感想
対話して最終的には、追いつめられるとう指摘がおもしろかったです。
現代では感じの悪い人と見られてしまうと思いますが。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ