こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 社交の重要性
相互行為として行なわれるさまざまなコミュニケーション的な行為のなかにおいて、ケアはどのような位置づけをもちうるものなのであろうか。
ケアというコミュニケーションは、日常生活での
物理的な心身援助を含むことから、身体をめぐるコミュニケーションという側面も有している。
その点に鑑みて、ケアを二つのコミュニケーションと比較してみよう。
一つは、一般には身体接触のからまない行為である社交というコミュニケーションであり、もう一つは身体接触にかかわるコミュニケーションの重要例である性行為というコミュニケーションである。
まず、社交というコミュニケーションと比較してみよう。20世紀初頭にドイツに登場し、社会学の基礎を築いた人物の一人であるG. ジンメルはその著作『社会学の根本問題』のなかで、社交を重要な社会現象として位置づけた。
社交の具体的な例として、私たちは社会人の懇親会やパーティ、学生のコンパなどを考えればよいであろう。
ジンメルによれば、社交の場面は、さまざまな行動を通じて達成されなければならない目的や内容といったものから一切解放され、人間関係の相互的な形式だけが前面におどりでてくるときであり、それを価値づけ楽しむところに意義がある。
そのような社交では、話すこと自体が重要な目的であり、相互に交わされる話自体を遊戯的に享受するところに芸術性すら宿る。
社交の場面に利害のからむ話を直接持ち込むことは歓迎されないのである。
したがって、社交には、リアリティとの衝突というものがない。
実利主義的に考える人たちは、そのような目的達成の少ない相互行為を無意味であるとして、社交を空しい愚行であると片づける。
しかし、ジンメルはいう、「社交的社会こそ、純粋の『社会』である」と。
そのような社交をケアと比較してみよう。
社交はしゃれた会話やユーモアあふれる話題が交わされるという言葉のコミュニケーションとしての比重が高い。
それに対し、ケアは生命や生活を支える援助や治療ということで、身体接触を中心にそれに会話がともなう行動となることが多い。
ケアには、その活動がなければ日常生活に不都合が生じる、さらには生きていけない人がいるという、個々人の具体的な生命や生活を支える重要な役割が担わされている。
それゆえ、社交的コミュニケーションにおいて利害のリアリティの衝突が好まれず、会話における対等性がめざされるのと異なり、ケアの目的にはむしろ生の切実性という形で身体的なリアリティが内包されている。
それを支える必要性から、身体援助を中心にケアをする、ケアをされるという関係の非対称性が構成される。
その非対称性は、とくに排泄介助を中心に、従来自分でしてきたことを他人に頼まざるをえないことから、恥ずかしさとともにすまなさの感情としてケアを受ける側に起こりがちである。
また、社交は公的空間においてさまざまな参加者同士の会話がはずみ、コミュニケーションをとる人びとが順次入れ替わる形で行なわれる。
それに対し、ケアは在宅ケアという形で私秘性をおびた空間で行なわれる場合もあれば、病院・施設などの公的空間において行なわれる場合もある。
しかし、公的空間でケアが行なわれる場合であっても、ケアをされる人のプライバシーに配慮して、身体援助の場面が見えないようカーテンをひくなど私秘性が確保されることがめざされる。
感想
実利主義的に考えると、目的達成の少ない相互行為を無意味であるとして、社交を空しい愚行であるという指摘はおもしろいと思いました。
話すこと自体を楽しむというのは、精神的にも経済的にも余裕がないとできないことだと思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ