こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 「教える/学ぶ」のパラドックス
矢野智司は、「子どもは一方で未熟な存在であり、大人によるさまざまな配慮や援助なしには大人になれない」という原理と、「子どもは自発性を持った主体的な人格であり、大人と同様に固有の権利を有している」という原理のふたつの葛藤が、近代の「教育」の原理を生んだという。
つまり、「教える/学ぶという教育の関係」と「啓蒙主義的人間学の原則である理性的存在者としての平等性(対称の関係)」のパラドックスである。
ルソーは『エミール』で、教育者が背後に隠れ決して非対称な関係を作らない「消極教育」という「歴史上最も不思議な教育空間」を構想した。
「生徒がいつも自分は主人だと思っていながら、いつもあなたが主人であるようにする」空間である。
これは「教師の主導」のない空間である。
しかし、知らない人に知らないことを教えることは、おそらく「教師の主導」(知っている人からの質問)を要請し、それと「生徒の応答」がせめぎあう空間を生み出すことだろう。
教師の主導と評価(「教える」)が非対称性を生み、生徒の自発的な応答(「学ぶ」)が対称性を達成しようとして、ふたつが拮抗する空間。
佐伯胖はこれを端的に「『教える』と『学ぶ』のディレンマ」と呼ぶ。
教えることの必要性と子どもが自ら学ぶことへの信頼とのディレンマ。
「子どもが自主的・主体的に動くように、動かす」というパラドックス。
「教える/学ぶ」、おおげさにいえば「知っている人びとの共同体」と「知らない人びとの共同体」をつなぐコミュニケーションは、このパラドックスを孕むのだろう。
非対称的に「知っている人」が主導する局面と「知らない人」が主体性を発揮する局面は、ときに矛盾しときに補完しあう。
このパラドックスをじっさいの「教える/学ぶ」コミュニケーションはどう処理するのだろう。
おそらくそれはもっとも効率的なノイズなきコミュニケーションではなく、むしろパラドックスこそ「教える/学ぶ」を可能にする契機なのではないか。
感想
現実には、子どもが主体的に学ぼうとすることはあまりないと思いました。
ぼくも小学生の時には、主体的に何かを学んだことはなかったと思いますし、そういう人は多いと思います。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ