こんばんは。冨樫純です。
男女平等や女性解放が叫ばれて久しいが、スポーツの世界では男女が平等に扱われているだろうか。
結論は、扱われてはいません。
ここからは、その現状となぜ不平等があるのか説明します。
中学や高校でのクラブ活動を思い出してほしい。
男子が入れる運動部と女子が入れる運動部の数は同じだっただろうか。バレーボールやバスケットボール、テニスや卓球、陸上競技などは男女とも参加できたと思う。
けれども、男子しか参加できないクラブもかなり多かったはずである。
武道関係はまず男子のみである。最近、女子の剣道や柔道もみられるが、まだまだ女性には参加できる機会が少ない。
また、ラクビー、アメリカンフットボールも男子だけのスポーツといえよう。
女子がどうしても部員になりたいならマネージャーとして入部するしか方法はない。
ではなぜこのような男女の不平等が存在するのか。
それは「女性はスポーツには適さない」という誤解が長い間社会のなかにあったからである。
西洋でさえ、スポーツは男子のするものであって、女性がするものではないという考え方が古くから根強く続いていた。
第1は「女性が生理的にスポーツに適さない」という誤解である。
つまり、スポーツが生理·出産や女性の生殖
器などに悪影響をおよぼすとか、骨格の構造が男性より弱く負傷しやすいとか、男性的なからだになって女性的魅力がなくなるとか、信じられていた。
これらはすべて科学的根拠がない。
第2は「女性がいくらがんばっても能力的に男性にはかなわない」という誤解である。
たしかに平均的なからだの大きさと筋肉の大きさでは男性に劣る。
けれども、条件が同じ場合には、女性が男性に運動能力的に劣るという科学的根拠はない。
実際、1980年のニューヨーク市マラソンの女性優勝者の記録が1952年以前のオリンピック ·ゴールドメダリストの記録を上回ったという事実は、それを証明するものである。
ちなみに、1984年のロサンゼルス大会までは女子マラソンはオリンピックの種目にはなかったのである。
第3は「スポーツは女らしさを損ねる」という誤解である。
つまり「女らしさ」とは西洋においても昔から「受動性」、「優しさ」、「弱さ」、「従順性」と結びつけて考えられてきた。
しかし、スポーツに参加することは、それとは正反対の「積極性」、「激しさ」、「強さ」、「主導性」が要求される。
したがって、スポーツに参加することは「女らしさ」をそこねることになると考えられ、女性はスポーツに参加することをはばかる風潮があったといえよう。
さらに、子どもがおとなに成長していく過程で男子はスポーツを奨励されるけれども、女子にはあまりスポーツを勧めず、むしろ敬遠させる方向で教育するという傾向が西洋にも日本の社会にもみられることも見逃せない事実である。
一方、イスラム教の社会では今日でも女性のスポーツを禁止している国が大半であるといわれる。
下記の本を参考にしました。
『ソシオロジー事始め』
中野 秀一郎 (編集)
有斐閣ブックス