こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
「かくされたカリキュラム」が伝えるジェンダー
1970年代以降の教育研究においては、学校にはフォーマルなカリキュラム以外に、暗黙のうちに共有された潜在的なカリキュラムがあることが注目されてきた。
学校生活において子どもたちは、フォーマルなカリキュラムだけでなく、「かくされたカリキュ ラム」 と呼ぶ べ き、 学校文化に特徴的なメッセージの体系を学んでいる。
たとえばそれは、児童や生徒としてふさ わ しい行動はどのようなものかというメッセージであったり、成績の序列に関するメッセージであったりする。
それらのメッセージは、教師の発言や子どもたちへの働きかけのようす、学級運営や学校行事における慣習などさまざまなチャンネルを通じて、インフォーマルに子どもたちに伝達されるのである。
このような「かくされたカリキュラム」のなかには、ジェンダーに関するメッセージも含まれて
いる。
「女子はこうあるべき」「男子はこうあるべき」というステレオタイプ化されたジェンダー・イメージが、学校文化のじつに多様な側面を通じて、子どもたちに発信されている。
たとえば、近年学校現場において男女別名簿の是非が議論されているが、名簿に代表される男女を区別する学校慣習は「かくされたカリキュラム」の一例である。
従来、小学校から高等学校までの学校で使われる名簿は男子から先に並べた男女別の形式が一般的であるが、学校生活以外の生活領域では、男女混合の名簿のほうがむしろふつうである。
名簿に限らず学校のなかでは、男女を分けて男子を優先する慣習は多い。
始業式、卒業式、朝礼、運動会などの式典や学校行事において児童・生徒を整列させたり点呼したりする場合、授業中出席をとったりグループ分けをしたりする場合、さまざまな場面で、とくに合理的な理由もなく男女は分離される。
そして、男女別の集団のあつかいに順番が生じるときには、必ずといってよいほど男子が先、女子が後になる。
こうした風景は、学校生活のなかではあまりにも自然になっており、指導をおこなっている教師自身にもほとんど意識されていないことが多い。
しかし、教師の意図の如何にかかわらず、学校というフォーマルな組織において、男女の分離と男子優先というルールがたえず繰り返されることの意味は大きい。
また、男女の分離や、単なる順番としての男子優先ではなく、より明確に性別のステレオタイプ・イメージ(先入観にもとづく固定的な考え方) に依拠した慣習も多い。
たとえば、委員や児童会、生徒会の役員を選ぶとき、リーダーの役割は男子で、その補佐役割は女子。
係を決める場合には、重いものを運ぶ仕事は男子で、美化や行事の接待係は女子。
部活動では、女子は男子の体育系クラブのマネージャーとして雑用・世話係を引き受ける。
固定的な性役割や「らしさ」イメージは、学校生活のいたる場面に浸透している。
子どもたちにとって重要な社会化モデルである教員の性別構成もまた、ジェンダー・イメージ伝達の一端を担っている。
幼稚園から大学まで学校段階が上がるにつれて、女性優勢から男性優勢へと、教員の男女比はあざやかに逆転していく。
また、校長・教頭など学校管理職に占める女性の比率は、どの学校段階においてもきわめて少ない。
学校制度を幼稚園から大学までタテに、または、一つの学校の教員集団をタテにと、どんな切り方をしても、女性は教員世界のヒエラルキーの下部を支える実態が子どもたちの眼前にある。
担当教科による男女比も重要な意味をもつ。
たとえば、数学や理科など理系の教科や社会などの社会科学系の教科では圧倒的に男性教員の比率が高く、家庭科や養護教員は、そのほとんどが女性である。
受験科目としての位置づけを一つの基準とした教科間の序列意識が学校文化として共有されるなかで、そうした暗黙のうちの教科ヒエラルキーと、各教科に占める女性教員の比率は、地位、の低いものをさらに低め、高いものをさらに高めるという相互効果をもたらす。
また、理系の教科は男性のもので女性には不向きであり、家庭生活に関するものは女性にのみふさわしいという、男女の特性意識と結びつく。
感想
学校生活は、意識はしていませんてしたが、差別的だったことに気づかされました。
その方が楽だということもあると思いました。
下記の本を参考にしました
伊藤公雄 牟田和恵編著