とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

ビル・ゲイツの寄付の仕方

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


「理性的思考の義務付け」 戦略

 


ビル・ゲイツは、よく知られているように、マイクロソフト社の初代会長であり、10年あまりにわたって世界一の富豪であった人物だ。

 


彼とその妻メリンダは、ゲイツ財団を作り、エイズのようにメディアに取り上げられやすい病気だけでなく、マラリア赤痢などの地味であるが毎年多くの人々の命を奪っている予防可能な感染症の対策に力を入れていることで知られている。

 


ゲイツ夫妻は、寄付先を決めるさい、「どの問題が、最も多くの人々に影響を及ぼしているか」、「過去に無視されてきた問題は何か」という二つの原則に従っているという。

 


この二人はこの原則に厳格に従うことで、たとえば人目につきやすく人々の共感を得やすい米国がん協会のような団体ではなく、マラリア結核など、費用対効果が最も見込めるところに寄付をしているとされる。

 


このように、二人は共感に基づく直観的思考を極力排除して、合理的思考で寄付先を決めていると言える。

 


このような徹底した合理的思考が可能なのは、単にゲイツ夫妻が指折りの大富豪であるというだけではなく、小さなころからコンピュータ・プログラミングに打ち込んできたビル・ゲイツが、人一倍数学的思考に長けていることのおかげかもしれな米国のある評論家が次のように述べている。

 


「われわれは大きな数字を見ると無関心になる。ゲイツは大きな数字を見て、次のような道徳的な計算を行なうのだ。回避可能な死=悪い。回避可能な死× 一〇〇万人=一〇〇万倍悪い」。

 


ビル・ゲイツがこの通りに考え、二つの原則を功利原理から導かれる二次的規則として用いているとすると、彼は現代の模範的な功利主義者だと言えよう。

 


しかし、この戦略にもいくつかの問題がある。

 


まず、道徳における合理的思考を 発達させるためにどのような教育を施せばよいのかについて検討する必要がある。

 


また、教育すれば誰もがこのような思考を身に付けられるのかも問題になる。

 


感想

 


ゲイツ夫妻は、寄付先を決めるさい、「どの問題が、最も多くの人々に影響を及ぼしているか」、「過去に無視されてきた問題は何か」という二つの原則に従っている、という箇所が感心させられました。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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厚生功利主義とは

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


幸福=利益を充足させることか

 


当人が現に抱いている選好を充足することは必ずしも幸福につながるわけではない。

 


そこで、本人の選好よりも本人の利益やニーズを満たすことが幸福につながるという考え方が出てきても不思議ではない。

 


この場合の利益やニーズは、本人の意思とは基本的に関わりなく、客観的に決まるものだとされる。

 


この考え方に則るならば、功利主義者がすべきことは、諸個人の快楽や選好を満たすことではなく、諸個人の利益を最大化することとなる。

 


この立場は、「厚生功利主義」と呼ばれることがある。

 


この立場の大きな利点は、「効用の個人間比較」の問題を回避できることだ。快楽や選好充足を幸福と考えた場合、「わたしの快楽や選好の強さと、あなたの快楽や選好の強さを、どうやって比較できるのか」という問題が出てくる。

 


たとえば、わたしとあなたが仲良しの高校生で、夏休みに一緒に何をするかを決めているとする。

 


わたしは大学受験のために勉強するよりも北海道を一周したいと思っているが、あなたは北海道を旅行するよりも大学受験のために勉強したいという。

 


この場合、わたしが大学受験よりも旅行を選好していることと、あなたが旅行よりも勉強を選好していることは明らかだが、旅行したいというわたしの選好の強さと、勉強したいというあなたの選好の強さを正確に計って比較することはできない。

 


喧嘩して決めることもできるかもしれないが、喧嘩の強さは選好の強さと必ずしも一致しないだろう。

 


同じ問題は快楽についても生じる。快苦メーターという架空の話をしたが、快苦メーターにせよ選好メーターにせよ、理論的には、わたしのメーターと、あなたのメーターの尺度を共通にするのは、快楽や選好の強さが本質的に個人的な経験であるために、大変難しいのだ。

 


これが「効用の個人間比較の問題」と呼ばれるものである。

 


一方、本人の利益というのは、本人がそれを現に選好するかどうかに関わらないため、こうした問題は生じない。

 


わたしにとってもあなたにとっても、勉強して大学に入ることが利益であるならば、わたしやあなたが実際に何を選好しているかにかかわらず、勉強することが幸福につながると言える。

 


このように、利益やニーズは、快苦や選好よりも客観的なものであり、人間である限り等しく幸福に役立つものと考えられる。

 


そのため、選好や快苦につきまとう個人間比較の問題が回避できるのだ。

 


この立場の最大の問題は、人々の利益について真に客観的なリストを作るのが難しいということだ。

 


快適な住居や食事、家族や友人、健康や自由や余暇というのは、おそらく誰にとっても当人の利益となると思われる。

 


しかし、美的な経験はどうだろうか。オペラ鑑

賞あるいは名画鑑賞は人々の幸福のために必要だろうか。

 


また、政治参加はどうだろうか。一部の人は政治参加なくして幸福なしと主張するかもしれない。

 


では、やりがいのある仕事はどうだろうか。やりがいのある仕事がなければ、人間は幸福になれないのだろうか。

 


だが、政治参加ややりがいのある仕事までを利益のリストに入れると、合理的な選好の場合と同様、「これがあなたの幸福に必要なのだから」と外部から押しつけるような理論になってしまう危険がある。

 


仮にこのような利益のリストが過不足なく作られ、みながそれに合意することができればよいが、どんなリストを作っても多すぎる、少なすぎると論争が起きる。

 


もっとも、この考え方は政治レベルではかなりうまく行くだろう。人間の幸福につながる利益のリストに比べて、不利益のリストは合意が得やすい。病気や貧困、戦争や飢餓などは、まず間違いなく誰の幸福にとってもマイナスだ。

 


最小不幸社会」を作るという発想は、幸福へのこうした障害を取り除くことを政府の主要な目標にするということだ。

 


最小不幸社会という考えは、当時は消極的すぎると批判された。だが「宗教的生活こそが人々の利益になる」と考えて最大幸福を主張するような人に比べれば、穏当な主張で皆が支持しやすいだろう。

 


政府の役割は幸福を増やすというよりは不幸を減らすことだというのは潔い立場だ。

 


このように見てくると、利益や不利益の客観的リストを作るという発想は、ある程度までは魅力的である。

 


とはいえ、やはり幸福論としては次のような問題が残る。この立場は、個人が幸福になるための基盤を提供しているだけで、「幸福とは何か」という根本的な問題には答えていないように見えるのだ。

 


言い換えると、健康や住居や安全など、誰にとっ

ても幸福になるために必要なものがあり、それを過不足なくリスト化して提供しようといのがこの考え方であり、ではいったい幸福とは何なのかという最初の問いには、幸福に役立つ事柄のリストを作成した以上には答えていないことになる。

 


感想

 


厚生功利主義は、説得力があるとぼくは思います。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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愚かな選好とは

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


愚かな選好を充足すべきか

 


適応的選好形成と似た問題として、われわれが持つ「愚かな選好」をどう考えるかという問題を挙げておこう。

 


たとえばわれわれは、交通事故が起きたときの悲惨さをよく知っていれば、後部座席でもシートベルトをきちんと締めるかもしれない。

 


しかし実際には、ついつい面倒くさいと思って締めないですませてしまうこともあるだろう。

 


この場合、(1]「面倒くさいからシートベルトを締めない」という選好を充足すべきか、あるいは、(2]「事故が起きた場合に悲惨なことにならないようにシートベルトを締める」という、よく考えたならば持ったはずの選好を充足すべきか、という問題が出てくる。

 


(1)を選んで現に持っている選好を満たすことは、必ずしも当人の幸福にはつながらないかもしれない。

 


しかし、(2)を選ぶと、確かに当人の幸福にはつながるかもしれないが、実際には抱かれていない選好を満たすことになる。

 


これは、「われわれが現に持つ選好を充足する」という元々の発想とは異なる考え方である。

 


(2)は、選好充足に一種の合理性の条件を入れる発想と見ることができるだろう。適応的選好形成や愚かな選好によってわれわれは実際には不合理な選択をしがちであるから、実際の選好ではなく、「人々が、一定の教育や情報を受けた場合に持つであろう選好」を充足させることにしよう、というわけだ。

 


合理的であれば、われわれは一定の教育の機会

参政権が保障されることを欲求し、シートベルトを締めることを選好し、アル中になって家族が崩壊するほどは飲まないことを選好するだろうから、それら「合理的な選好」を充足することがわれわれの幸福につながるという考え方だ。

 


この考え方は魅力的だが、二つ問題がある。一つは、自分が何を幸福と考えているかにかかわらず、「これがあなたの幸福になるんだから」と外部から押しつけるパターナリスティックな理論になる危険があるということだ。

 


いわば、「選好のソムリエ」のような人に人生を決められてしまうことになりかねない。

 


もう一つは、「あなたが合理的だったら持つであろう選好を充足する」という考えは、われわれが現に持つ選好を充足するという元々の発想からは遠く離れてしまっているため、もはや選好という言葉を使う必要すらないのではないかということだ。

 


この立場では、個人が現に抱く選好のことは考慮せずに、客観的な「幸福になるために必要なことのリスト」を作って、それを充たすというので十分なはずである。

 


感想

 


「選好のソムリエ」のような人に人生を決められてしまうことになりかねない、という箇所がおもしろいと思いました。

 


確かに、外から押し付けられる感じは否めないからです。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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適応的選好の形成とは

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


適応的選好の形成

 


もう一つ、より現実的で深刻な問題として、「適応的選好の形成」という話題を取り上げよう。

 


アマルティア・センという経済学者がいる。生まれはインドだが、イギリスで教育を受けているエリートの学者だ。

 


ちなみに彼は幸福なことにノーベル経済学賞を存命中に受賞している。

 


その彼が挙げている例で、非常に貧困な家庭に生まれてまともな教育も受けずに育ってきたインド人の女性の話がある。

 


そういう女性に「あなたにとって幸福とは何ですか」と尋ねると、おそらく「衣食住が満たされれば幸せだ」と答えるだろう。

 


続けて「女性の参政権や、女性の教育や就労の機会の保障は幸福につながると思いますか」と聞くと、おそらく教育を受けていない彼女は、参政権が何なのかも知らず、教育や仕事がどうして自分の幸福に役立つのかが理解できないだろう。

 


さてこの場合、本人は欲していないからと言って、教育の機会や参政権を与えなくてもよいのだろうか。

 


また、「女性は男性に尽くすのが当たり前」と教えられている男女不平等の社会を考えてみよう。

 


そのような社会で育ちそれに適応した選好を持つ女性は、男性に尽くすことによって幸福感を得ることになるだろう。

 


ここには上のインド人女性の話と同様の構造があ

る。男性に都合のよい選好を抱くように育てられてきた女性は、そのような社会に問題を感じておらず、たとえ問題点を説明されても何が問題なのか理解できない可能性がある。

 


そして、男性に尽くしたいという選好が叶い、幸福感を得られているのなら、何も問題ないではないかと言うかもしれない。

 


だがはたして、そのような社会に住み、自らの望みが叶えられた女性は、本当に幸福なのだろうか。

 


このように、非常に制限された環境や構造的な差別が存在する環境に育ってきた人は、その環境に適応した選好を形成してしまい、幸福になるために通常は必要だと思われる選好を持たなくなる可能性がある。

 


これを適応的選好の形成と言う。

 


選好が充足されたかどうかだけで幸福を計ることが問題なのは、この適応的選好形成があるためである。

 


適応的選好形成は人間だけでなく、動物にもあるだろう。生まれたときから動物園にいライオンは、サバンナでシマウマを追いかけることを夢見て不満に思ったりはしない。

 


そんなことは知りもしないから、そもそも欲求のしようがないのだ。 しかし、仮に身の回りの世話をしてもらえて、大きなストレスを抱えることなく一生を過ごしたとしても、動物園のライオンは幸福だったと言えるだろうか。

 


幸福とは選好が充足されることだ、という立場をとるならば、功利主義の目的は、人々の持つ選好を最大限に満たすことだと言い換えられるだろう。

 


その場合、上のインド人女性のような「高望みしない人々」をたくさん作って、彼らの限定された選好を満たせば功利主義の目的はよく達成されることになる。

 


しかし、それで万事解決されたと思う人は少ないだろう。

 


もっとも、適応的選好の形成は悪いことばかりではない。仏教の教えに「吾唯知足」(われただ足るを知る=今あるもので満足する)という言葉があるように、叶えられない選好をいつまでも抱いて不満に思っているよりは、その選好を放棄して、現実の環境に適応した選好を持つ方が幸福につながるときもある。

 


イソップ寓話に出てくる狐は、高いところになっているブドウの房がとれないことを悟ると、あのブドウは酸っぱいに違いないと言って、その場を去ってしまった。

 


これを負け惜しみと見ることもできるが、手に入らないものはさっさとあきらめて別のことに取り組む潔い態度と理解することもできるだろう。

 


幸福になるためには捨ててしかるべき選好も

ある、というのは一つの洞察であろう。

 


以上から、幸福とは現に持っている選好を充足させることだという幸福観は単純すぎることを理解してもらえたかと思う。

 


感想

 


「適応的選好の形成」とは、我々が当たり前に感じている「環境によって幸福は異なる」ということだと思いました。

 


また、理論として確立されていたことに驚きました。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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機械や薬で幸福になる?

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


機械や薬で幸福になる?

 


仮に快楽をうまく定義できたとしても、二つ目の問題がある。たとえば、「快楽とは、望ましい意識状態のことである」としよう。

 


だが、われわれは、そのような快楽の追求を本当に幸福だと思っているだろうか。以下ではいくつかの思考実験を通して、この問いについて考えてみよう。

 


まず、有名な「経験機械」という思考実験がある。ロバート・ノージックという米国の哲学者が考案した事例だ。これは、脳に電極を差し込むことにより、あなたが望むあらゆる体験をバーチャルに経験できる機械の話だ。

 


この機械による副作用などはなく、使用中も健康状態はモニタリングされ、機械につながれていなかった場合と同じ健康状態が保たれる。

 


そこで、あなたは上で述べたような「快適な意識状態」を好きなだけ楽しむことができる。

 


また、心配性の人のために、数年に一度、現実世界に戻ってくることもできる。さて、このような経験機械にあなたはつながれたいと思うだろうか。あるいは、つながれることが幸福だと思うだろうか。

 


この話を聞くと、インターネットカフェで数日徹夜してオンラインゲームをしていた若者が心臓発作で死んだ事件を思い出す人もいるかもしれない。

 


あるいは映画「マトリックス」のように、バーチャルの世界にいる間に誰かに本体を攻撃されたりするのではないかと不安を抱くかもしれない。

 


しかし、そういうマイナス面はなく、バーチャルだが一生を楽しく過ごせると仮定したうえでよく考えてみてほしい。

 


最近はバーチャルな恋愛ゲームが流行っているが、何の心配もなく一生その甘酸っぱい世界に浸っていられるという状況を想像するとよい。

 


再度聞くが、あなたは、このような経験機械につながれたいだろうか。

 


これだけ魅力的(?)に書かれると、現実世界で辛い思いをしている人は、それでオッケーと言うかもしれない。

 


では、次の例はどうだろうか。

 


オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』は、科学技術の進んだ未来における究極の管理社会を描いた小説だ。

 


この社会では、人々は不機嫌になると「ソーマ」という薬を飲んで幸福な気分になる。このような社会に疑問を抱き始めた主人公のバーナードと、社会に満足しているレーニナとの間で、次のような会話がなされる印象的な場面がある。

 


バーナード「君は自由になりたいとは思わないのかね、レーニナ?」

 


レーニナ「わたし、あなたのいうことが分らないわ。わたし自由よ。とてもすばらしい時を過す自由を持っているわ。今ではすべての人は幸福なのよ」

 


またラットの快楽中枢を刺激して行動をコントロールするという研究は半世紀以上前から行なわれている。

 


仮にわれわれが圧制を敷かれた国家に生きており、市民の多くが不幸だとする。そのわれに二つの選択肢があるとしよう。

 


一つは、人々を不幸にする政府を大変な労苦を通

じて変革し、幸福になることだ。もう一つは、そのような変革を行なわず、政府が支給するソーマあるいはハッピーピルを飲んで幸福になることだ。

 


おそらく多くの人はハッピーピルを飲むべきではないと言うのではないだろうか。その理由を説明するのは難しいが、大事な点は、自分が望ましい状態にあると感じているだけでは、われわれは自分が幸福だとは思えないというところにあるように思う。

 


ハクスリーが描いた社会で主観的幸福度の調査を行なうと、100%の人が「非常に幸せ」を選ぶだ

ろう。

 


しかし、われわれはそのような社会に住む人々を幸福とは考えないだろう。なぜならわれわれは、主観的に満足しているだけでなく、客観的にも幸福でありたいからだ。

 


言い換えれば、幸福感を抱いている状態と、本当に幸福な状態は同一であるとは限らないのもう一つ例を挙げよう。『トゥルーマン・ショー』という秀逸な映画がある。ジム・キャリーが演じる主人公は、いわゆるリアリティTVの出演者として、生まれたときからよくできた撮影セットの中に住んでいる。

 


これはあまりにうまくできた世界のため、主人公は大人になるまで自分が撮影セットの中にいることにまったく気付かず、テレビに出演していることも知らなかった。

 


しかし、いくつかの不可解な出来事をきっかけに、自分が現実の世界ではなく、撮影セットといういつわりの世界に生きていることに気付く。

 


そこで主人公は苦心してその世界から抜けだそうとする。

 


その映画の最後に、とうとう主人公は撮影セットという世界の「出口」を発見する。そけわの出口の前に立った主人公に、彼にとっての「神」であるディレクターが初めて語りかける。

 


ディレクターは次のように尋ねる。この世界は撮影セットとはいえ、おまえが幸福になるために作られた世界であり、何も恐れることはない。

 


だが、外に出たら、おまえはきっと今よりも不幸になるだろう、それでもおまえは出ていくのか、と。

 


もう結末は予想できるかもしれないが、映画をまだ見たことのない人のために、主人公がどうしたかは記さないでおこう。

 


しかし、問題は経験機械の話や『すばらしい新世界」の話と同じだ。われわれは精神的な快適ささえ保たれていれば幸せなのか、それともそれ以上の何かがなければ幸せとは言えないのか。

 


話が長くなったが、二つ目の問題は、われわれは快楽を感じているだけでは必ずしも幸福とは言えないということだ。

 


ミルは「満足した愚か者よりも不満足なソクラテスの方がよい」と言ったが、これに倣って言えば、「いつわりの世界で幸福感に浸って生きるよりも、真実の世界で不満を感じながら生きていた方がよい」ということになるだろう。

 


感想

 


われわれは、主観的に満足しているだけでなく、客観的にも幸福でありたいからだ、という箇所が一番印象に残りました。

 


機械や薬では幸福になれないのかもしれないと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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快苦の定義は可能か

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


快苦の定義は可能か

 


ベンサムやミルのいわゆる古典的功利主義では、幸福快楽、不幸=苦痛と考えられた。

 


ベンサムの「序説』の冒頭にあったように、われわれ人間は快楽を追求し、苦痛を避ける存在だという考え方だ。

 


しかし、これについてはいくつか問題がある。

 


一つの大きな問題は、快楽とはいったい何なのかがよくわからないということだ。

 


これは、上で見た「幸福とは何か」という問いと同じ問題である。つまり、さまざまな快楽に共通する性質はいったいどのようなものなのか、ということだ。

 


たとえばベンサムは、人間の行為は究極的には快楽を求めていると考え、すべての人間の行為を快苦に結びつけた。

 


しかし、針で指と爪の間を刺されて痛いとか、マッサージを受けて気持ちいいなどの身体的な快苦は比較的わかりやすいが、精神的な快苦というのはそれと同じレベルのものなのだろうか。

 


たとえば上司に怒られて腹のあたりが痛いという

のは身体に現れた苦痛なので同列に語れるかもしれない。

 


だが、次のような例はどうだろうか。

 


あなたが3度の飯より酒が好きというほどの無類の酒好きだとしよう。

 


しかし、長年の飲酒癖がたたって、体はぼろぼろ、アルコール依存症の一歩手前まで来ているとする。

 


日も飲んでから真夜中に帰宅すると、寝ずに待っていた妻がこれ以上飲んだら子どもを連れて実家に帰りますと、よよと泣きながら訴える。

 


娘もお父さんお酒はもうやめてとつぶらな瞳に涙を浮かべて言う。

 


あなたは海より深く反省し、酒を断つことを誓う。しかし、次の日の夜になるとまたぞろ酒が飲みたくてたまらなくなる。酒を飲むと一時的にせよ、強烈な快楽が得られることがわかっている。

 


ここで仮に、今回はあなたの断酒の意志がとても強く、酒を飲む欲求に負けなかったとしよう。

 


その場合でも、あなたは快楽を追求していると言えるだろうか? むしろ、意志の力によって、快楽を追求することを拒否したと言えるのではないか。

 


ここで、家族の崩壊を防ぐために断酒することで、飲酒による一時の快楽を上回る快楽を追求しているのだと解釈することもできる。

 


しかし、その際の「快楽」とは正確にはどのようなものなのか。

 


飲酒の誘惑に負けないことを選ぶ場合、酒を飲まないことによって得られる「快楽」を追求しているというよりは、幸福のために快楽の追求を断念したと言った方が正確ではないだろうか。

 


別の言い方をすると、仮に功利主義を支持する科学者たちが、快苦の強度や持続性など今を読みとれる「快苦メーター」を作ろうとしているとする。

 


これを体のどこかに埋め込んでおけば、現在、あるいは過去に経験した快苦が計測できるというものだ。

 


その場合、快苦メーターは、電気メーターが電力の使用量を計るのと同様に、何かについて計っていなければならないだろう。

 


しかし、よく考えてほしいのだが、上で挙げた事例すべてに共通する「何か」は、本当に見つけられるだろうか。

 


マッサージを受けている「快」と、あなたが飲酒の誘惑に耐えているさいに得ている(と考えられる)「快」を測定するための共通の尺度はあるだろうか。

 


もしそのような尺度があるとすれば、「快苦」がきちんと定義されたことになり、「快苦メーター」もうまく機能するだろう。

 


だが、おそらく酒飲みのあなたが酒をがまんしているときに快苦メーターをチェックすると、メーターが振り切れるほどの苦痛を感じているのではないだろうか。

 


そうだとすると、酒を我慢することによる「快」というのは、通常言われる快苦とは異なる次元のもののように思われる。

 


いずれにせよ、われわれの行為すべてに共通する「快楽」を定義するのは難しく、仮に定義できたとしても、元々出発点にあった定義とは異なるものとなる可能性が高い。

 


別の言い方をすると、「すべての行為は究極的には快楽を追求している」というのはシンプルで魅力的な説だが、その場合に言われる「快楽」は、通常の意味とは異なった、内容空疎なものになっている可能性がある。

 


むしろ普通の言葉遣いでは、われわれは快楽を追求していることもあれば、そうでなくて別のものを追求していることもある、というふうに考えた方がすっきりするように思われる。

 


苦痛についても同様だ。たとえば、今日の医療では緩和ケアという領域がある。これは、がんの治療などにおいて患者の苦痛を和らげることを主な目的とする医療だ。

 


最近は、単なる身体的苦痛を取り除くだけでなく、不安やいらだちなどの精神的苦痛、経済的事情や家族関係などの問題に由来する社会的苦痛、そして人生の意味や死生観の問題などに由来する霊的な苦痛(スピリチュアル・ペイン)にも取り組むべきだと言われている。

 


これらさまざまな苦痛は総称して「全人的苦痛(トータル・ペイン)」と呼ばれる。今日の緩和ケア

は、全人的苦痛の緩和に取り組むべきだと唱えられている。

 


これは大変重要な取り組みだ。しかし、これらすべてに共通する「苦痛」とはいったい何だろうか。

 


先ほどの上司に怒られて腹が痛くなった例のように、精神的苦痛は、結局は身体的な苦痛に還元されるのだろうか。

 


あるいは、精神的苦痛は、身体的苦痛とは別なも

のなのだろうか。また、社会的問題や霊的な問題がわれわれに与える苦痛は、われわれの身体に与えられる苦痛なのか、精神に与えられる苦痛なのか、あるいはそれ以外の苦痛なのか。

 


快楽の場合と同様、ここでもやはり「苦痛」の定義が難しい。仮に定義できたとしても、そこでは、通常われわれが考えている「苦痛」とは異なるものになってしまっていて、もはや別の名前を付けた方がよいものになっている可能性が高い。

 


感想

 


「快苦メーター」が上手く機能すれば、功利主義もより現実的になると思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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ベンサムやミルの快楽説

こんにちは。冨樫純です。

 


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そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


ベンサムやミルの快楽説

 


「所得や健康や家族などが幸福に役立つというとき、それらすべてに共通しているのは、われわれに快楽をもたらすということだ」というものだ。

 


これはベンサムやミルの考え方だ。ベンサムは先に見たように、苦痛そのものを善いとする禁欲主義に反対し、快楽そのものはすべて善だと述べた。

 


そして、幸福とは快楽のこと、もしくは苦痛が存在しないことであり、不幸とは苦痛のこと、もしくは快楽が欠如していることだと主張した。

 


ただし、彼はどの快楽が幸福につながるかということに関しては、基本的に無頓着だった。 

 


彼の有名な言葉に「快の量が同じであれば、プッシュピン遊びと詩作は同じぐらいよい」というものがある。

 


プッシュピン遊びというのは当時の子どもの遊びの一種で、日本だとたとえばメンコとかベーゴマを考えるとよい。

 


これらの遊びによって得られる快楽と、詩を作るといったような高尚な趣味によって得られる快楽を比較するとしよう。

 


その場合、両者がその強度や持続性等々において等しいのであれば、どちらがより優れた快楽かは一概には言えない、とベンサムは言うのだ。

 


これは「自由主義における個人の生き方への不介入」に通じる考え方である。すなわち、どの快楽も善いものだから、各人は他人に苦痛を与えない限りで自由に快楽を追求するのがよい、という自由主義の発想につながっている。

 


一方、ミルは快楽には質の違いがあると述べた。これは快楽に質の違いを認めなかったベンサムを直接批判したものではなく、功利主義は人々が低級な「ブタの快楽」を追求することを支持しているという批判に応えたものだった。

 


たしかに、「快楽」という言葉を聞いたとき、われわれは普通、ベンサムが述べていたような記憶や想像がもたらす快苦や、善行や悪行による快苦などは思い浮かべないだろう。

 


むしろ、五感の快楽、とくに食欲や性欲を想起しがちだ。そのイメージのまま、「幸福とは快楽のことである」という功利主義の主張を聞くと、功利主義とは食って飲んで寝ることを幸福とする哲学かと誤解してしまうだろう。

 


そこでミルは、功利主義も立派な人間像を持っていることを示すために、快には質があると主張して、次のように述べたのだ。

 


満足したブタよりも不満足な人間の方がよい。満足した愚か者よりも不満足なソクラテスの方がよい。

 


ミルはこのように述べ、精神的な快楽を高級な快、身体的な快楽を低級な快とした。

 


そして、高級な快と低級な快の違いは、両者を経験した人には容易に判定できると考えた。

 


たとえば、「満足したブタ」と「不満足な人間」のどちらがよいか。これは、両方を経験した人ならすぐに分かるはずだ、とミルは言う(もっともわれわれはブタのようにはなれるが、ブタそのものになることはできないので、満足したブタがどんな快楽を得ているかは想像しかできないが)。

 


ただしミルは、もうろくした人などは易きにつきがちで誤った選択をする可能性があると言っている。

 


また、意見が割れる場合には多数決によって決めなければならないとも考えていたようだ。

 


感想

 


「幸福」と同じように「快楽」も掴みどころがないと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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