とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

機械や薬で幸福になる?

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


機械や薬で幸福になる?

 


仮に快楽をうまく定義できたとしても、二つ目の問題がある。たとえば、「快楽とは、望ましい意識状態のことである」としよう。

 


だが、われわれは、そのような快楽の追求を本当に幸福だと思っているだろうか。以下ではいくつかの思考実験を通して、この問いについて考えてみよう。

 


まず、有名な「経験機械」という思考実験がある。ロバート・ノージックという米国の哲学者が考案した事例だ。これは、脳に電極を差し込むことにより、あなたが望むあらゆる体験をバーチャルに経験できる機械の話だ。

 


この機械による副作用などはなく、使用中も健康状態はモニタリングされ、機械につながれていなかった場合と同じ健康状態が保たれる。

 


そこで、あなたは上で述べたような「快適な意識状態」を好きなだけ楽しむことができる。

 


また、心配性の人のために、数年に一度、現実世界に戻ってくることもできる。さて、このような経験機械にあなたはつながれたいと思うだろうか。あるいは、つながれることが幸福だと思うだろうか。

 


この話を聞くと、インターネットカフェで数日徹夜してオンラインゲームをしていた若者が心臓発作で死んだ事件を思い出す人もいるかもしれない。

 


あるいは映画「マトリックス」のように、バーチャルの世界にいる間に誰かに本体を攻撃されたりするのではないかと不安を抱くかもしれない。

 


しかし、そういうマイナス面はなく、バーチャルだが一生を楽しく過ごせると仮定したうえでよく考えてみてほしい。

 


最近はバーチャルな恋愛ゲームが流行っているが、何の心配もなく一生その甘酸っぱい世界に浸っていられるという状況を想像するとよい。

 


再度聞くが、あなたは、このような経験機械につながれたいだろうか。

 


これだけ魅力的(?)に書かれると、現実世界で辛い思いをしている人は、それでオッケーと言うかもしれない。

 


では、次の例はどうだろうか。

 


オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』は、科学技術の進んだ未来における究極の管理社会を描いた小説だ。

 


この社会では、人々は不機嫌になると「ソーマ」という薬を飲んで幸福な気分になる。このような社会に疑問を抱き始めた主人公のバーナードと、社会に満足しているレーニナとの間で、次のような会話がなされる印象的な場面がある。

 


バーナード「君は自由になりたいとは思わないのかね、レーニナ?」

 


レーニナ「わたし、あなたのいうことが分らないわ。わたし自由よ。とてもすばらしい時を過す自由を持っているわ。今ではすべての人は幸福なのよ」

 


またラットの快楽中枢を刺激して行動をコントロールするという研究は半世紀以上前から行なわれている。

 


仮にわれわれが圧制を敷かれた国家に生きており、市民の多くが不幸だとする。そのわれに二つの選択肢があるとしよう。

 


一つは、人々を不幸にする政府を大変な労苦を通

じて変革し、幸福になることだ。もう一つは、そのような変革を行なわず、政府が支給するソーマあるいはハッピーピルを飲んで幸福になることだ。

 


おそらく多くの人はハッピーピルを飲むべきではないと言うのではないだろうか。その理由を説明するのは難しいが、大事な点は、自分が望ましい状態にあると感じているだけでは、われわれは自分が幸福だとは思えないというところにあるように思う。

 


ハクスリーが描いた社会で主観的幸福度の調査を行なうと、100%の人が「非常に幸せ」を選ぶだ

ろう。

 


しかし、われわれはそのような社会に住む人々を幸福とは考えないだろう。なぜならわれわれは、主観的に満足しているだけでなく、客観的にも幸福でありたいからだ。

 


言い換えれば、幸福感を抱いている状態と、本当に幸福な状態は同一であるとは限らないのもう一つ例を挙げよう。『トゥルーマン・ショー』という秀逸な映画がある。ジム・キャリーが演じる主人公は、いわゆるリアリティTVの出演者として、生まれたときからよくできた撮影セットの中に住んでいる。

 


これはあまりにうまくできた世界のため、主人公は大人になるまで自分が撮影セットの中にいることにまったく気付かず、テレビに出演していることも知らなかった。

 


しかし、いくつかの不可解な出来事をきっかけに、自分が現実の世界ではなく、撮影セットといういつわりの世界に生きていることに気付く。

 


そこで主人公は苦心してその世界から抜けだそうとする。

 


その映画の最後に、とうとう主人公は撮影セットという世界の「出口」を発見する。そけわの出口の前に立った主人公に、彼にとっての「神」であるディレクターが初めて語りかける。

 


ディレクターは次のように尋ねる。この世界は撮影セットとはいえ、おまえが幸福になるために作られた世界であり、何も恐れることはない。

 


だが、外に出たら、おまえはきっと今よりも不幸になるだろう、それでもおまえは出ていくのか、と。

 


もう結末は予想できるかもしれないが、映画をまだ見たことのない人のために、主人公がどうしたかは記さないでおこう。

 


しかし、問題は経験機械の話や『すばらしい新世界」の話と同じだ。われわれは精神的な快適ささえ保たれていれば幸せなのか、それともそれ以上の何かがなければ幸せとは言えないのか。

 


話が長くなったが、二つ目の問題は、われわれは快楽を感じているだけでは必ずしも幸福とは言えないということだ。

 


ミルは「満足した愚か者よりも不満足なソクラテスの方がよい」と言ったが、これに倣って言えば、「いつわりの世界で幸福感に浸って生きるよりも、真実の世界で不満を感じながら生きていた方がよい」ということになるだろう。

 


感想

 


われわれは、主観的に満足しているだけでなく、客観的にも幸福でありたいからだ、という箇所が一番印象に残りました。

 


機械や薬では幸福になれないのかもしれないと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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