とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

愚かな選好とは

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


愚かな選好を充足すべきか

 


適応的選好形成と似た問題として、われわれが持つ「愚かな選好」をどう考えるかという問題を挙げておこう。

 


たとえばわれわれは、交通事故が起きたときの悲惨さをよく知っていれば、後部座席でもシートベルトをきちんと締めるかもしれない。

 


しかし実際には、ついつい面倒くさいと思って締めないですませてしまうこともあるだろう。

 


この場合、(1]「面倒くさいからシートベルトを締めない」という選好を充足すべきか、あるいは、(2]「事故が起きた場合に悲惨なことにならないようにシートベルトを締める」という、よく考えたならば持ったはずの選好を充足すべきか、という問題が出てくる。

 


(1)を選んで現に持っている選好を満たすことは、必ずしも当人の幸福にはつながらないかもしれない。

 


しかし、(2)を選ぶと、確かに当人の幸福にはつながるかもしれないが、実際には抱かれていない選好を満たすことになる。

 


これは、「われわれが現に持つ選好を充足する」という元々の発想とは異なる考え方である。

 


(2)は、選好充足に一種の合理性の条件を入れる発想と見ることができるだろう。適応的選好形成や愚かな選好によってわれわれは実際には不合理な選択をしがちであるから、実際の選好ではなく、「人々が、一定の教育や情報を受けた場合に持つであろう選好」を充足させることにしよう、というわけだ。

 


合理的であれば、われわれは一定の教育の機会

参政権が保障されることを欲求し、シートベルトを締めることを選好し、アル中になって家族が崩壊するほどは飲まないことを選好するだろうから、それら「合理的な選好」を充足することがわれわれの幸福につながるという考え方だ。

 


この考え方は魅力的だが、二つ問題がある。一つは、自分が何を幸福と考えているかにかかわらず、「これがあなたの幸福になるんだから」と外部から押しつけるパターナリスティックな理論になる危険があるということだ。

 


いわば、「選好のソムリエ」のような人に人生を決められてしまうことになりかねない。

 


もう一つは、「あなたが合理的だったら持つであろう選好を充足する」という考えは、われわれが現に持つ選好を充足するという元々の発想からは遠く離れてしまっているため、もはや選好という言葉を使う必要すらないのではないかということだ。

 


この立場では、個人が現に抱く選好のことは考慮せずに、客観的な「幸福になるために必要なことのリスト」を作って、それを充たすというので十分なはずである。

 


感想

 


「選好のソムリエ」のような人に人生を決められてしまうことになりかねない、という箇所がおもしろいと思いました。

 


確かに、外から押し付けられる感じは否めないからです。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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