こんにちは。冨樫純です。
倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
ベンサムやミルの快楽説
「所得や健康や家族などが幸福に役立つというとき、それらすべてに共通しているのは、われわれに快楽をもたらすということだ」というものだ。
これはベンサムやミルの考え方だ。ベンサムは先に見たように、苦痛そのものを善いとする禁欲主義に反対し、快楽そのものはすべて善だと述べた。
そして、幸福とは快楽のこと、もしくは苦痛が存在しないことであり、不幸とは苦痛のこと、もしくは快楽が欠如していることだと主張した。
ただし、彼はどの快楽が幸福につながるかということに関しては、基本的に無頓着だった。
彼の有名な言葉に「快の量が同じであれば、プッシュピン遊びと詩作は同じぐらいよい」というものがある。
プッシュピン遊びというのは当時の子どもの遊びの一種で、日本だとたとえばメンコとかベーゴマを考えるとよい。
これらの遊びによって得られる快楽と、詩を作るといったような高尚な趣味によって得られる快楽を比較するとしよう。
その場合、両者がその強度や持続性等々において等しいのであれば、どちらがより優れた快楽かは一概には言えない、とベンサムは言うのだ。
これは「自由主義における個人の生き方への不介入」に通じる考え方である。すなわち、どの快楽も善いものだから、各人は他人に苦痛を与えない限りで自由に快楽を追求するのがよい、という自由主義の発想につながっている。
一方、ミルは快楽には質の違いがあると述べた。これは快楽に質の違いを認めなかったベンサムを直接批判したものではなく、功利主義は人々が低級な「ブタの快楽」を追求することを支持しているという批判に応えたものだった。
たしかに、「快楽」という言葉を聞いたとき、われわれは普通、ベンサムが述べていたような記憶や想像がもたらす快苦や、善行や悪行による快苦などは思い浮かべないだろう。
むしろ、五感の快楽、とくに食欲や性欲を想起しがちだ。そのイメージのまま、「幸福とは快楽のことである」という功利主義の主張を聞くと、功利主義とは食って飲んで寝ることを幸福とする哲学かと誤解してしまうだろう。
そこでミルは、功利主義も立派な人間像を持っていることを示すために、快には質があると主張して、次のように述べたのだ。
満足したブタよりも不満足な人間の方がよい。満足した愚か者よりも不満足なソクラテスの方がよい。
ミルはこのように述べ、精神的な快楽を高級な快、身体的な快楽を低級な快とした。
そして、高級な快と低級な快の違いは、両者を経験した人には容易に判定できると考えた。
たとえば、「満足したブタ」と「不満足な人間」のどちらがよいか。これは、両方を経験した人ならすぐに分かるはずだ、とミルは言う(もっともわれわれはブタのようにはなれるが、ブタそのものになることはできないので、満足したブタがどんな快楽を得ているかは想像しかできないが)。
ただしミルは、もうろくした人などは易きにつきがちで誤った選択をする可能性があると言っている。
また、意見が割れる場合には多数決によって決めなければならないとも考えていたようだ。
感想
「幸福」と同じように「快楽」も掴みどころがないと思いました。
下記の本を參考にしました
『功利主義入門』
児玉聡