とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

裁判での証拠の重要性

こんにちは。冨樫純です。


「検察官の証拠開示 」についてのコラムを紹介します。


特に刑事裁判では、弁護士と検察官の証明合戦みたいな側面があると、改めて感じました。


弁護人は、起訴後は、裁判所にある証拠書類、証拠物を閲覧し騰写する権利をもつが(刑訴40条 299 条)、検察官が手元に置いている証拠、とくに公判で取調べを請求する予定のない証拠については、2004年改正までは、その開示に関する明文規定はなかった(もっとも、実際には、弁護人に閲覧させることが多かった)。


そこで、たとえば「松川事件」では、被告人のアリバイを証明するメモなどが検察官の手元にあるのに、検察官がこのメモの開示を拒否することによって、無実の人間が有罪にされそうになった。


松川事件」 とは、1949 年に福島県松川駅近くで起こった列車転覆事件であり、当時の国鉄労働組合員ら20名が被告人として起訴されたが、そのアリバイを証明するメモ (「諏訪メモ」)の存在が最高裁の段階で初めて明らかになり、最終的に全員が無罪となったものである。


そこで、何らかの方法で検察官の手持ち証拠を弁護人に開示させること(証拠開示)ができないか

という問題が生ずる。


これについては、2004年改正まででも、証拠調べの段階で弁護人から具体的必要性を示して一定の証拠閲覧の申し出があれば、裁判所の訴訟指揮権 (刑訴 294 条)にもとづいて、検察官に対し、その証拠を弁護人に閲覧させるよう命ずることができるとされていた。


また、2004年改正後は公判前整理手続の中で、検察官の請求する証拠の証明力を判断するだめに、一定の条件の下で、検察官手持ち証拠の開示が義務づけられるようになった(刑訴316条の15)。


もっとも、検察官の手元にどのような証拠があるのかが、あらかじめ弁護人にわかっていないときには、この方法では解決にならない。


証拠開示問題は、さらなる改革を要する課題の

ひとつである。


下記の本を参考にしました。


『はじめての法律学』HとJの物語

  松井 茂記 他2名

  有斐閣アルマ

国選弁護人制度

こんにちは。冨樫純です。


「国選弁護人制度」についてのコラムを紹介します。


ぼくも弁護士に知り合いがいないので、もし警察のお世話になるようなことがあれば、国選弁護人制度を利用することになると思いました。


すべての人は、自由を奪われるときには直ちに弁護人に依頼する権利を与えられるし(憲34条1項)、そうでなくても、被疑者·被告人はいつでも弁護人を選任することができる(刑訴30条)。


通常、この弁護人は、弁護士でなければならない(刑訴31条1項)。

 

さらに、被告人が貧困などの理由で弁護人を選任できない場合には、裁判所が弁護人を選任する (憲37条3項、刑訴36条)。


これを「国選弁護人制度」という。


以前は、起訴前の被疑者の段階では、この 「国選弁護人制度」がなかった。


もちろん、知り合いの弁護士がいれば、その人物と連絡を取って弁護人になってもらうことはできるが(「私選弁護」)、多くの人々にとって、弁護士に知り合いがいないというのが、日本の現状である。


ところが、被疑者、被告人が専門家の援助を最も必要とするのは、「代用監獄」(「代用刑事施設」)での過酷な取調べが行われる起訴前の段階なのである。

 

このように起訴前の弁護制度が手薄な現状を改善するために、1990年から各地の弁護士会で 「当番弁護士制度」 がはじまり全国に広がった。


これは、事前に当番表によって担当日を割り当て

られた弁護士や弁護人推薦名簿に登録されている弁護士(「当番弁護士」)が、逮捕などによって身柄を拘束された被疑者やその家族などから弁護士会になされた面会依頼に応じて、被疑者のいる警察署などに出向いて面会し (「接見」)、助言、援助を与える制度である。


この最初の接見は無料で、被疑者の依頼があれば当番弁護士が自ら私選弁護人となることができる。


さらに、2004年の改正によって、勾留後、起訴前の被疑者にも、一定の場合に「国選弁護人」 を付することができるようになった(刑訴203条・204 条)(2006年 10月に施行された)。


下記の本を参考にしました。


『はじめての法律学』HとJの物語

  松井 茂記 他2名

  有斐閣アルマ

 

刑罰を受けない人々

こんにちは。冨樫純です。


「刑罰を受けない人々」についてのコラムを紹介します。


心神喪失者が刑罰を受けないことはテレビドラマなどを見て知っていましたが、それ以外にもいることを学びました。


①責任無能力者


行刑法では、精神の障害を理由とする心神喪失者や14歳未満の少年(少女を含む)は、「犯罪」の主体とて刑罰を受けることはない(刑 39 条1項·41 条)。


これらの人々の逸脱行動に対しては、刑罰は適切な対応手段ではないからである。 これらの人々

を「責任無能力者」という。

 

心神喪失者の場合


精神の障害を理由とする心神喪失者の逸脱行動に対処するには、懲罰的手段ではなく、行動の原因となる障害を除去することが最も有効である。


そこで、自分を傷つけたり他人を害したりするおそれのある精神障害者に対しては、現行法は、強制的な入院と治療の制度を予定している (精神保健及び精神障害者福祉に関する法律 29条以下にもとづく都道府県知事による措置入院や、心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律による通院 入院処遇)。


なお、心神喪失とは、精神の障害により行為をやってよいかどうかの判断ができないか、あるいはやってはいけないとわかっていても自分の行動を抑えることができない場合をいう。


これに対して、精神の障害により行為をやってよいかどうかの判断能力が著しく減退しているか、あるいはやってはいけないとわかっていても自分の行動を抑制する能力が著しく減退している場合は心神耗弱と呼ばれ、刑が必ず減軽される(刑 39条2項)。


③少年の場合

 

刑法は14歳未満の少年を処罰しないとしている。もっとも、実際には、20歳未満の未成年者が通常の刑罰を受けることは稀である。


そのかわりに、罪を犯した少年ないし14歳に満たないで刑罰法規に触れる行為をした少年や将来罪を犯すおそれのある少年(これらを総称して非行少年という)に対しては、少年法が「保護処分」を予定している。


これは、「少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する」ものであって (1条)、具体的には、保護観察所の保護観察に付したり児童自立支援施設·少年院などへ送致することをいう(24条)。


「保護」とは、 少年を非行にかりたてる性格や環境からの少年の「保護」 である。


決して、少年を甘やかせる趣旨のものではない。


少年に対してこのような特別な制度が用意されているのは、少年は環境の影響を受けやすく、また性格の矯正も容易なので、懲罰的な制裁よりも、教育的な措置のほうが、将来の犯罪の防止に有効だからである。


逆に、少年に成人と同じ刑を科したら、具体的には成人犯罪者と同じ場所に入れたら、そこで暴力団とのつながりができたり、あるいは受刑者の虐待の対象になったりすることなどで犯罪性を深めることになり、かえってろくなことはない。


したがって、少年の事件に対しては、犯した結果の重大性に目を奪われて重罰を求めるような態度は慎まなければならない。


④女性による売春の場合


売春防止法は、刑罰に代わる強制措置を規定している。


すなわち、同法は、売春の勧誘などを処罰するとともに、このような罪を犯した成人の女性に対して、懲役または禁鋼の刑の執行を猶予するときは、その者を婦人補導院に収容し、更生に必要な補導を行う「補導処分」 に付すことができると規定しているのである (17条)。


また、同法は婦人相談所を設けて、女性の保護更生をはかっている (34条以下)。これは、対象となる女性に売春以外の合法的な方法で生計を立てる可能性を開かせることによって売春の防止をはかることを目的としたものである。


下記の本を参考にしました。


『はじめての法律学』HとJの物語

  松井 茂記 他2名

  有斐閣アルマ

脳死と人の死

こんにちは。冨樫純です。


脳死と人の死」についてのコラムを紹介します。


よく言われることですが、脳死問題には、法律的、医学的、倫理的問題がそれぞれ関係しているので、難しいと改めて感じました。


いわゆる「脳死」に対しては、現在の臨床的な脳死判定基準では、実際には脳機能の全廃を保証しえないとする批判や、そもそも「人の死」を脳機能の有無だけで判定することに対する疑問が提起されている。


この問題は、1992年のドイツ· エアランゲンでの事件を契機に、あらためて注目を集めた。


この事件では、妊娠継続のために、裁判所が脳死状態の妊婦に成年後見人を選任し、その承諾を得て医療が施された。


残念ながら胎児は生きて生まれるまでには至ら

なかったが、問題は、裁判所が脳死状態の人に対しても後見人を選任したことにあった。


というのも、死者に後見人はつけられないので、脳死が人の死を意味するなら後見人の選任は不可能なはずだからである。


ところで、脳死状態でも妊娠の継続がありうるのは、現在の臨床的な脳死判定基準はたいてい、妊娠を継続させたり血圧の低下を防いだりするための脳 (とくに視床下部)の機能の停止までは必要条件としていないことによる。


なぜなら、脳死判定基準は本来、患者の蘇生不可能性を判定するものであって、その状態で脳の機能がすべて停止したことまでは意味していないからである。


つまり、脳死判定基準は脳の「すベての機能」の停止ではなくて、脳の「全体としての機能」の停止を判定するものなのである。


したがって、真の問題は、このように脳の機能の一部は残っている可能性はあるが蘇生はもはや不可能だという状態を 「人の死」 といってよいかどうかにある。


下記の本を参考にしました。


『はじめての法律学』HとJの物語

  松井 茂記 他2名

  有斐閣アルマ

 

 

 

危険運転致死傷罪の問題点

こんにちは。冨樫純です。


危険運転致死傷罪」についてのコラムを紹介します。


問題があるにせよ、犯罪に規定することはその抑止力に多少は働いていると思いました。


2001年11月28日に、刑法 208 条の2に「危険運転致死傷罪」が設けられ、その後の改正を経て、今日では、アルコールまたは薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させたよって、人を負傷させた者は 15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処することとなった。


また、その進行を制御することが困難な高速度等で、またはその進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様に処罰され (208条の2第1項)、さらに、赤信号等の信号をことさらに無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって人を死傷させた者も同様に処罰されることとされた(同条2項)。


そのため、酒に酔い、速度違反を犯し、赤信号を無視して自動車で人を負傷させた行為に対しては、この 「危険運転致死傷罪」が適用される可能性もある。


もっとも、自動車運転過失致死傷罪を含めて、自動車による故意のない結果犯を特別扱いする規定を一般的な傷害の罪ないし過失傷害の罪の中に設けることに対しては、モーターボートや艦船による重過失事件にはこのような重罰規定はなく、これらによる軽傷事件に刑の免除の余地がないというアンバランスを考えただけでも疑問の残るところである。


また、「危険運転致死傷罪」の施行後、ひき逃げ事件が倍増するという問題も起きている。

 

下記の本を参考にしました。


『はじめての法律学』HとJの物語

  松井 茂記 他2名

  有斐閣アルマ

死刑は廃止すべきか

こんにちは。冨樫純です。


「死刑」についてのコラムを紹介します。


死刑の威嚇効果に効果がないのであれば、存在させる理由がないし、被害者やその遺族の復讐的な感情は別の方法でケアすればいいと思いました。


最高裁憲法36条で禁止される 「残虐な刑罰」には当たらないとしているものの(最大判 1948 [昭23]·3·12刑集2巻3号191頁)、死刑は、規範的予防を重視する現代の刑罰論からは、異質な

ものとなりつつある。


それどころかドイツでは、1977年に憲法裁判所において、仮釈放の可能性のない終身刑すら憲法違反とされたのであって、死刑に限らずおよそ受刑者の社会復帰を前提としないような刑罰は、しだいに縮小される傾向にある。


死刑や拷問の廃止を目指しているNGOアムネスティインターナショナルの調査によれば、死刑廃止国は、10年以上執行されていない事実上の廃止国を含めて、2009年にはすでに139にのほっている。


死刑存置の最大の論拠は、死刑は威嚇力が大きく殺人などの凶悪犯罪の予防に不可欠であるというものである。


ところが、諸外国の比較では、凶悪犯罪の発生率は死刑の有無で顕著な差をみせていない。


逆に、刑事政策的には、死刑廃止国が死刑になる可能性のある重大事件の被疑者を死刑存置国に引き渡さないとする政策をとっており、死刑廃止国に逃亡した犯罪者を処罰できないというデメリットを生んでいる。


ヨーロッパでは、死刑制度を維持している国は EU に加盟できず、ヨーロッパに隣接した死刑存置国は、経済統合の面で不利な立場に立たされている。


もっとも、死刑には被害者やその遺族、さらには社会の応報感情、凶悪犯人はその命を奪われて当然であり、肉親を殺され惨めな生活を強いられている立場からみれば、たとえ刑務所のなかであっても生ているのは耐えられない、という感情を満足させるという機能もある。

 

しかし、被害者やその遺族は、加害者への憎しみの感情によってかえって自分自身の精神的な傷を深くするという事実もある。


したがって、死刑廃止国では近年、被害者ないし遺族の生活保障や心理的ケアにも力を入れている。

 

下記の本を参考にしました。

 

『はじめての法律学』HとJの物語

  松井 茂記 他2名

  有斐閣アルマ

 

 

古代中国の刑罰

こんにちは。冨樫純です。


「古代中国の刑罰」についてのコラムを紹介します。


昔は、刑罰が残酷であればあるほど、犯罪の抑止力になっていたのではないのかと感じました。


古代中国では、代表的な刑罰が「五刑」と呼ばれていました。

 

たとえば、周代では、墨(いれずみの刑)·剛 (鼻切りの刑)·肌(足切りの刑)·宮(生殖器を切る刑)·大牌(首切りの刑)。秦·漢代では、鯨(いれずみの刑)·劇·則·農首(さらし首の刑)·薙(死体を塩づけにする刑)、といった具合です。


また、「車裂」とは、両手両足を別々の馬車につなぎ、合図とともにそれぞれ別方向に車を走らせて、体をばらばらに裂いてしまうという残酷な刑罰です。


総じて中国の刑罰は、体を傷つけるものが多いのですが、これは、中国が「孝」の思想によ肉体の保全を第一に考えるからです。


健全な体で子孫を残すことが、「孝」の第一歩、

体に傷をつけるのは、それに反する行為です。


中でも、体をばらばらにしてしまう車裂の刑は、単に残酷というだけではなく、この「孝」の思想という観点からも非常に重い刑罰だったのです。


ただ、こうした残酷きわまりない刑罰は、中国の専売特許だったのではありません。


実は、日本でも、江戸時代に相当ひどい刑罰や拷問が行われています。自白を強要する「石抱」は、テレビの時代劇でもよく登場しますが、「牛裂」の刑があったことも知られています。


罪人の両手両足を別々の牛につなぎ、それぞれ別方向に走らせて肢体を引き裂のです。


これこそ、日本版「車裂」の刑に他なりません。


下記の本を参考にしました


超入門『中国思想』

湯浅邦弘

だいわ文庫