とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

知名度は低い名著

こんにちは。冨樫純です。


老荘思想と『菜根譚』」についてのコラムを紹介します。


おもしろそうなので、『菜根譚』を読んでみたいと思いました。


また、「100分de名著」もおもしろそうな番組だと思いました。


老荘思想が後世にも大きな影響を与えた証しとして、『菜根譚(さいこんたん』という書をあげることができます。


明の洪自誠という人の著。


今から400~500年くらい前の本です。


あまり知られていませんが、実は、中国でも日本でも隠れたベストセラーとなっています。


中国にはさまざまな処世訓を説く文献がありますが、この『菜根譚』は、その最高傑作との呼び声が高いのです。


2014年、NHKテレビ(Eテレ)の番組「100分de名著」で、この『菜根譚』が取り上げられました。


翌15年にも、アンコール放送されたので、視聴者から一定の反響があったものと思われます。


司会進行は、タレントの伊集院光さんと局アナの武内陶子さん。そして私はゲスト講師として出演しました。


はじめ伊集院さんは、『菜根譚』という書名すら聞いたことがなく、番組の冒頭でいきなり、「ちんげんさい」なら知っています、とギャグを飛ばす始末。


そのくらい知名度の低い古典だったのです。しかし、番組が進むにつれて、現場の雰囲気は盛り上がっていきました。


内容を熟知しているはずの私にも、改めて大きな発見がありました。それは『菜根譚』に老荘の影響が色濃く見えるということです。


たとえば、『菜根譚』は、一歩譲ることの大切さを説きます。


世の中を渡っていくのに一歩を譲る気持ちが大切だ。


一歩退くのは、のちのち一歩を進めるための伏線となる。


人を待遇するのに少し寛大にする心がけが望ましい。


他人に利を与えるのは、実は将来自分を利するための土台となる。


これは、トップやセンターにいることの難しさを説く老子の思想を展開させたものでしょう。


官位は頂上まで極めない方がよい。


極めてしまうと転落の危険がある。


すぐれた才能はすべては出し切らない方がよい。


すべて出し切ると、あとは衰えるばかりである。


これも言うまでもありません。頂点を極めない、極めたら直ちに身を退くという『老子』の思想そのままです。


下記の本を参考にしました


超入門『中国思想』

湯浅邦弘

だいわ文庫

 

 

 

 

 

専守防衛の種源?

こんにちは。冨樫純です。


「安保法制と墨子」についてのコラムを紹介します。


専守防衛非攻という考え方は、日本の憲法にも通じると思いました。


2015年9月、国会で安全保障関連法案が可決されました。


委員会での採決は、目を覆いたくなるような修羅場。まさに強行採決でした。読者の皆さんにも賛否両論があるでしょう。


ともかくこれにより、日本は新たな国家戦略を進めていく必要に迫られたのです。


また、委員会でたびたび質疑があったように、自衛隊はいったいどこまでなら出動してよいのか、どのような場合に武力行使して良いのか、といった点は、いまだにはっきりしない印象があります。


墨子ならどう考えたでしょうか。


墨子の思想の根本には、人類への愛があります。


自分さえよければいい、という狭い愛ではなく、天下全体の利益を考えるのです。


とても視野の広い思想だと言えましょう。


また、正義についても独特の考えを持っていました。

 

当時、儒家も「義」を説いています。孟子が「仁義」の重要性を主張したのはよく知られていることです。


ただ、この「義」とは、それぞれの国家·集団·組織にとっての正義であって、それが他の人々や国々の正義とは異なるという場合も多かったのです。


互いに正義を主張しあい、論争からさらに戦争に発展するということもしばしばでした。


現在の国際紛争も、必ずこの正義の食い違いから起こっています。


この「義」 について墨子は、驚きの行動を示しています。ある国との契約により、城塞の防衛に従事した墨家は、敗北の危機を迎えます。


このままでは墨家は全滅し、その継承者を失ってしまうという局面です。


そのとき、ここは撤退して再起を期しましょうという意見もありました。


しかし、墨家のリーダーは、その国との契約を履行できなかった以上、ここで死ぬのが我々の「義」だといって、結局集団自決してしまったのです。


この事件により、墨家の名は後世に残りました。


墨家の「義」とは、単にその国に殉ずることではなかったのです。天下の利と墨家の義に殉ずる。これが理想でした。


秦漢帝国以降、墨家集団は消滅してしまいます。その原因の一つとして、ごうした強烈な「義」の観念と果断な行動があったのかもしれません。


このように考えると、墨家の活動は、相当に過激だったという印象を持たれるかもしれません。もちろん、儒家と違い、墨家は時に戦闘行為に従事しました。


しかし、世界平和を口先だけで唱えるのではなく、その行動によってみずから示そうとしたのは、潔い態度です。ただし、その戦闘は、専守防衛に限られていました。


この墨家の思想と活動は、グローバル化した国際社会の平和とは何かについて、重い問いかけとなっているでしょう。


ただ一つ考えてみなければならないことがあります。それは、当時と今の「天下」の範囲の違いです。


墨子がいう「天下」とは、まさに「中国」。


範囲は、おおよそ黄河流域から長江(揚子江)流域まで。各地の方言は色々ありながらも、一応「漢語」(古代中国語)を共有していました。


また、一神教ではないにしても、「天」への素朴な信仰というものも共通点でした。「天命」「天運」「天下」などという言葉が今に伝わっているのは、その証しです。


しかし、今はどうでしょうか。天下の範囲は、地球全体に及んでいます。言語も様々、宗教も異なります。


そうすると、共通の基盤がないままに、お互いの価値観に基づいて正義を主張し合うという事態になってしまうでしょう。


さらに空想を遅しくすれば、いずれ地球外生物との共存や対立という事態も起こるかもしれません。


そうしたとき、墨子の説く天下全体の利とは、いったいどのように理解すれば良いのでしょうか。


また、その時、兼愛や非攻は、はたして有効な思想として機能するのでしょうか。


下記の本を参考にしました


超入門『中国思想』

湯浅邦弘

だいわ文庫

 

 

 

 

中庸とは

こんにちは。冨樫純です。


「宥坐の器(ゆうざのき)」についてのコラムを紹介します。


何事もほどほどがいいと言われることがありますが、ここから来ているようです。


栃木県足利市に国指定史跡「足利学校」があります。日本最古の学校遺跡とされています。


一説によれば、天長九年、平安朝のはじめに小野篁(おののたかむら)によって創建されたと伝えられています(諸説あり)。


境内には、孔子を記る孔子廟もあり、重要資料35000冊を保管する遺蹟図書館もあります。


さらに注目したいのは、「宥坐の器」です。


『荷子』宥坐篇にこんな話が載っています。


孔子が魯の桓公の廟を参拝していると、傾いた器がありました。孔子が廟の管理人に聞きました。


「これは何という器ですか」


管理人が言うには、「これは宥坐の器というものです」


孔子は言いました。


「私は聞いています。宥坐の器とは、空の時には傾き、ほどよい水位で正しくなり、いっぱいになるとひっくり返ってしまうと」


孔子は振り返って、水を注ぐように言いました。


弟子が水を汲んで注いだところ、孔子の言葉通り、ほどよい水位で正しい位置となり、さらに水を注ぐとひっくり返り、空になって傾きました。


孔子はため息をついて感嘆して言いました。


「ああ、どうしていっぱいになってひっくり返らないものがあろうか」


弟子の子路が言いました。


「あえてお伺いします。いっぱいの状態を保つ方法がありましょうか」


孔子は答えて言いました。


すばらしい智恵のある者は、これを守るのに愚を装い、功績が天下を占めるような場合には、これを守るのに譲るということを旨とし、勇気やカが世をおおうような場合には、これを守るのに臆病な態度を取り、富が世界を保有するほどである場合には、これを守るのに謙遜を旨とする。


これがいわゆる抑えて減らすという方法です。


これが有名な宥坐の器の話です。宥坐とは身近に置いて戒めにするという意味。


荀子は、孔子の故事を借りて、「中正」の重要性を説いているのです。いっぱいいっぱいの状態が危険だという思想は、老荘思想にも通ずる点がありますが、ここで荀子が言っているのは、老荘的な無為の教えではありません。


「中正」、つまり、ほどよいという意味で、別の言葉で言い換えれば、「中庸」ということでしょう。


実は、孟子も、かつて孔子に対して、こんな批評をしています。


仲尼は己甚だしきことを為さざる者なり。(「孟子」離婁下篇)


孔子は過激なことをしない、中庸をわきまえた人であったという意味。


宥坐の器は、中正の大切さを表しているとともに、孔子その人の生き様をも象徴していたのです。


そして実は、この宥坐の器が足利学校に置かれているのです。一つは、孔子廟に向かって左側の遺蹟図書館。その中の貴賓室にあります。ただ、これは写真撮影禁止で、特に案内文書も掲げられていません。


もう一つは、孔子廟向かって右側の方丈。かやぶき屋根·寄せ棟造りの建物で、この中にある宥坐の器には、実際に水が張られていて、ひしゃくで水を注ぐ体験ができるようになっています。


方丈の隅に置かれているので、これに気づく人が少ないのは残念です。


なお、宥坐の器は、足利学校の場合と同じように、孔子廟に置かれることが多いようです。


中国山東省 曲阜(孔子の生まれ故郷)にある立派な孔子廟にも、台湾台北市孔子廟にも、この宥坐の器が置かれています。日本でも、湯島聖堂(東京都文京区)や多久聖廟(佐賀県多久市)などにあります。


そんな中で、特に足利学校の宥坐の器を紹介したのは、現地で水を注ぐ体験ができるということ以外に、いながらにして、バーチャルな体験もできるからです。


足利市の公式ホームページをご覧ください。


そこには、何と「宥坐の器」というページがあり、ここで簡単なマウス操作によって器に水を注ぐ体験が、パソコン上でできるのです。


両側の紐によってつリ下げられた器は、はじめ少し傾いています。水を注ぐと徐々に水平に近づき、ほどよい水位できれいな水平となります。そしてさらに水を注ぐと器がひっくり返って水がすべてこぼれ落ち、もとの空の傾いた状態に戻る、という仕掛けです

 

下記の本を参考にしました


超入門『中国思想』

湯浅邦弘

だいわ文庫

 

 

 

孔子の女性観

こんにちは。冨樫純です。


孔子の女性観」についてのコラムを紹介します。


女性蔑視は現代でも残っていますが、この時代から存在していたことに驚きました。


少しきわどい話をしましょう。


孔子の女性観です。


現在、書店にはたくさんの『論語』解説書があふれています。


ただ、その多くは、「論語」の名言名句を紹介するだけで、孔子としてはふさわしくないような言葉については、見て見ぬ振りをします。


そこで、あえて次の言葉を取り上げてみましょう。


唯だ女子と小人とは養い難しと為す。(『論語』陽貨篇)


女子と小人が養いがたいものとして否定的に説かれています。


その理由として、孔子はこう続けます。「親しく近づけるとつけあがるし、遠ざけると怨む」から。


この言葉は、孔子の女性蔑視を示したものではないかとして、あまり人気がありません。


今から二千数百年前の中国は、厳しい階級社会であり、男性中心の社会でした。


孔子の率直な気持ちが表れているとも言えましょう。ただ、孔子を偉大な聖人とする立場からは、言ってほしくなかった言葉です。


そこで、最近、新解釈が登場しました。


現在、中国でも韓国でも儒教は再評価されています。文化大革命の頃には、封建的な思想として孔子は弾圧されましたが、道徳の急速な類廃をうけて、孔子は復活を遂げつつあります。孔子の思想の力を借りて、社会を安定させようとしているわけです。


数年前、「儒教」をテーマとする国際学会が韓国で開催され、私も招待されて参加しました。


その学会も、古代中国の思想を実証的に研究するというよりは、儒教の現代的な一意義を探り、孔子の再評価を進めるという雰囲気が濃厚でした。


そして、ある有名な中国人研究者から衝撃的な発表があったのです。


それは、右の孔子の言葉を取り上げて、次のように解釈すべきだというものでした。


唯だ女子の小人の与きものは養い難しと為す。

参考までに、ここの原文(白文)を示すと次のようになります。


通常は、「女子」の後の「奥(与)」は、「と」と読み、直前と直後の語を結ぶ言葉として理解されます。英語で言えば、接続詞の「AND」です。高校漢文でも、これは必須の句法で、大学入試でもよく出題されます。


ところが、その中国人研究者は、この「与」は、「と」ではなく、「ごとし」と読むべきだとするのです。


そして、この一文は、「女性の内で、小人のようなものは、養いがたい」という意味だと主張しました。


こう読めば、孔子が女性全般を批判しているのではなく、女性の中のごく一部、小人のようなできの悪い女性だけを批判していることになるのです。


会場にどよめきが起こりました。


儒教孔子を再評価しようとする国際学会にふさわしい発表です。


発表者は、二千年にわたる儒教の不当な評価が、これによって解消される、と豪語しました。


しかし、どうでしょう。これはいかにも苦しい解釈ではないでしょうか。


確かに、多くの漢文の用例をひろっていくと、「与」を「ごとし」のような意味でとることのできるものもあるようです。


でも、少なくとも「論語」には、そのような用例は他に一つもありません。


孔子が本当に「ごとし」の意味で言っていたのであれば、通常、それを表す「如」とか「若」などの漢字で記せば良かったはずです。


わざわざ「与」と書く必要はなかったのです。


というわけで、会場の興奮とはうらはらに、私自身は、この解釈が成り立つ可能性はきわめて低いと感じました。


ただ、孔子が女性蔑視を表明していると単純にとらえるのも、間違っていると思います。たとえば、育児をしてみるとよく分かりますが、自分の子どもでありながら、「養いがたい」と思うことはしばしばです。

 

風邪もひくし、怪我もする。学校で喧嘩をしたり、宿題を忘れたりする。何とも養いがたい。


ただそれは、わが子に対する愛情と表裏一体なのです。養いがたいから蔑視しているとは言えないのではないでしょうか。

 

下記の本を参考にしました

 

超入門『中国思想』

湯浅邦弘

だいわ文庫

 

 

 

 

幸福を考えるきっかけに

こんにちは。冨樫純です。


本を紹介します。


①この本を選んだ理由


哲学を勉強中で、古典的なものを読んでみようと思いました。


②こんな本です


『幸福論』

 ラッセル著 安藤貞夫訳   

 岩波文庫

 

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自分の関心を内へ内へとむけるのではなく、外界へとふりむけてあらゆることに好奇心をいだくこと。


偉大なるコモンセンスの人ラッセルは、これこそが幸福獲得の条件であり、それは自己説得によって可能なのだと説く。


たくましく、しなやかに人生を生きるための知恵がこの幸福の処方箋にはたっぷりと書き込まれている。


③こんな言葉が印象に残りました


中庸というのは、おもしろくない教義である。


忘れもしない、私も若いときには中庸を軽蔑と憤りをもって退けたものだ。


なにしろ、当時、私が賛美したのは英雄的な極端

であったのだ。


しかし、真理はいつもおもしろいわけでない。

 

一方、おもしろいというだけで信じられているものもたくさんあるが、実際には、おもしろいという以外に有利な証拠はほとんどない。


中庸が一つの適例である。つまり、中庸は、おもしろくない教義かもしれないが、実に多くの事柄において真実の教義である。


中庸を守ることが必要である一つの点は、努力とあきらめとのバランスに関してである。


どちらの教義も、従来、極端な主唱者がいた。あきらめの教義を説いてきたのは、聖徒や神秘主義者であった。


努力の教義を説いてきたのは、生産性向上専門家と筋肉的キリスト教徒であった。(本文より引用)


④この本が気になった方への2冊はこちら


『幸福論 』

アラン 他2名

岩波文庫


『幸福論 』(第1部)

  ヒルティ 他1名

  岩波文庫


興味を持ってくれた方はいるでしょうか?

興味を持った方は、是非読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハーバードの東洋哲学

こんにちは。冨樫純です。

 


本を紹介します。

 

①この本を選んだ理由


哲学を勉強中で、タイトルに惹かれて、読んでみようと思いました。


②こんな本です


『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』

 悩めるエリートを熱狂させた超人気講義

 マイケル ピュエット&

 クリスティーグロス=ロー 他1名

 早川書房

 

 

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「この講義が終わるまでに、きみの人生は必ず変わる」


そう約束するピュエット教授の授業が、ハーバードで絶大な人気を誇るのはなぜか? 


現代にあてはめた孔子孟子老子らの教えに、いま学生たちが熱狂しているわけとは? 


ピュエット教授による東洋哲学の新解釈で、今までの常識が覆る!


③こんな言葉が印象的でした


どんな人もとっさに子どもを古井戸から救い出そうとするだろう。


しかし荀子は、日々のありふれた瞬間にあまり他的でない衝動をいだいている事実から目をそらしてはならないと考えた。


最悪の欲求や願望もわたしたちにとって自然なものの一部だからだ。


わたしたちは、交通渋滞につかまり、だれかにクラクションを鳴らされればカチンとくる。


友人の不運についてうわさ話をし、信じて打ち明けてくれた秘密をもらしてしまう。


人に批判的なことを言われて、何日も気にやむ。


その不安をしずめるために、オンラインショップで買いものをしまくる。


もし、飼いならされていない最悪の部分がちょくちょく顔を出すのをいつも許していると、どの瞬間でも「本物の」自分をそのまま受け入れているとどうなるだろう。


葡子は、つぎのように書いている。

 

人の本性は悪であって、それを善にするのは人為によるものだ。今、人の本性には生まれつき利益を好む傾向がある……また、生まれつき人をねたみ憎む傾向がある。


そうだとすれば、人の本性に従い、感情のままに

行動すると、かならず争い奪い合うことになり、社会の秩序が乱れ、ついには天下に混乱をきたす。

(本文より引用)


④この本が気になった方への2冊はこちら


『なぜ今、世界のビジネスリーダーは東洋思想を      

    学ぶのか』

    田口佳史著

 文響社


『意味の深みへ』

  東洋哲学の水位

  井筒 俊彦著

 岩波文庫


興味を持ってくれた方はいるでしょうか?

興味を持った方は、是非読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

イスラム教が一夫多妻制を採用する理由

こんにちは。冨樫純です。


本を紹介します。

 

①この本との出会い


哲学を勉強中で、イスラム教もおもしろいと思い、入門書を読んでみようと思いました。


②こんな本です


イスラームを知ろう』

  清水 芳見著

  岩波ジュニア新書


③こんな言葉が響きました


一夫多妻制に対しては、とくに一夫一妻を結婚の最良の形態とみなすキリスト教徒からの批判があります。


批判の理由は、男尊女卑、家族生活を破綻させる一因となる、といったことです。


それに対して、ムスリムのほうは一夫多妻の正当性を主張します。

 

正当性の根拠のひとつは、一夫一妻制のもとで妻以外の女性と不倫したりするよりは、複数の妻を認めるほうが道理にかなっているというものです。


ムスリム側の言い分の是非はともかくとして、ここで重要なことは、イスラームで多妻が積極的にすすめられているわけではないということです。


クルアーンの4章3節は、けっして「複数の妻をめとらなければならない」といっているのではありません。


孤児の救済のために「4人まで妻をめとってもよい」といっているのであって、むしろ一夫多妻は例外として認められているというべきでしょう。

(本文より引用)


④この本が気になった方への2冊はこちら


ブッダ物語』

   中村 元 他1名

   岩波ジュニア新書


イスラム教入門』

  中村 広治郎

   岩波新書


興味を持ってくれた方はいるでしょうか?

興味を持った方は、是非読んでみてください。