とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

純粋主義の限界

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


何を評価できるか

 


純粋主義が特別視する知覚的な情報は、舌が反応する基本味(甘味・塩味・苦味・酸味など)、嗅覚が捉えるにおい、触覚が捉える温度・重さ・硬さ・食感、喉越し、聴覚が捉える音(咀嚼音など)、眼が捉える色・形・大きさ、といったものになるだろう。

 


たとえばラーメンを食べるとき、そこで得られる知覚的情報は「見た目は黄色で細長く、味はしょっぱくて油っぽく、それなりに噛みごたえがあり、温かい」といったものになる。

 


こうした情報に基づいて下される「おいしい」という評価こそ、純粋主義が本物の判断とみなすものだ。

 


だが、ここで注意してもらいたいことがある。

 


それは、目の前にラーメンが出てきたときに、私たちは「食べても大丈夫なのか」といちいち考えてなどいないということだ。

 


ラーメンを初めて見た人はそういったことを考えるだろうが、多くの人はそうではない。

 


店で提供されるものはだいたい安全で、食べても大丈夫だと私たちは知っている。

 


もちろん店で食中毒が起こることもあるが、衛生管理がしっかりした現代の多くの飲食店で提供される食べ物はおおよそ安全だ。

 


私たちは「店で提供されるものはだいたい安全」という知識があるからこそ、いちいち安全性を考えることなく提供されたものを食べることができる。

 


もし安全性が確保されていなかったら、食べ物のにおいを何度も嗅ぎながら少しずつ口に入れて咀嚼し、野生動物のように食べなければならないだろう。

 


重要なのは、安全性に関する知識は知覚的情報に含まれていないことである。もし純粋主義の認める知覚的情報しか使えないなら、何かを食べるときには「食べて大丈夫なのか」というところから考えなければならない。

 


だが、そんなことを考えている人はほとんどいない。

 


もし純粋主義を支持しようと思ったら、「安全性を考えずに食べる行動は知識に汚染された不純なものであり、とるべきではない」と言う必要が出てくる。

 


そして、毎回まったく知らない食べ物として安全性を一から真剣にチェックしなければならない。

 


しかし、そんなことが本当にできるのだろうか。

 


かりにできたとしても、毎回そんなことを気にかけていたら食事は楽しめないし、評価どころではないだろう。

 


純粋主義の問題はこれだけではない。

 


たとえば、純粋主義の枠組みでは「こってり」という評価も不可能かもしれない。というのも、普段から脂肪分の多いものばかり食べている人は、他の人が「こってり」と思うものを食べても「こってり」と評価しそうにないからだ。

 


つまり、「こってり」と評価するためには、自分が普段食べているものと、自分がいま食べているものを比較する必要があるのだ。

 


だが、「自分が普段食べているもの」は、過去に自分が得た情報であり、感覚器官がいま得ている情報ではない。

 


純粋主義には利用できない情報なのである。

 


感想

 


料理の味を純粋に五感だけで評価するのは難しいと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『美味しい』とは何か    

 食からひもとく美学入門

 源河 亨

 中公新書

 

flier(フライヤー)