こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
カテゴライズを無視できるか
他方で、純粋主義は言葉を介した情報や知識はおいしさの評価に関わるべきではないと主張していた。
そうすると、純粋主義の立場では「このラーメンはおいしい」という単純な評価すら不純なものとして拒否しなければならないことになるだろう。
そうすると純粋主義では、「このラーメンはおいしい」ではなく、単に「これはおいしい」と判断すべきだということになる。
「これはラーメンだ」というカテゴライズをせずに、「これ」というレベルで目の前のものを認識し、そのうえでおいしいかどうか評価すべきということだ。
しかし、そんなことが本当にできるのだろうか。かなり疑わしい。
というのも、カテゴライズはすばやく自動的になされるものだからだ。私たちは眼に入ったさまざまな対象を自動的にカテゴライズしている。机、椅子、電話、鍋、フライパン、箸、皿、道路、車、などなど、眼につくものは勝手に分類されている。
いちいち「これは机だ」という言葉を頭に浮かべなくても、他人から「これは何ですか」と聞かれれば「机です」と答えられる状態になっている。
何のカテゴライズもされずに「これ」レベルの認識にとどまっているものなどそうそうない。
そうすると、純粋主義が言うようにおいしさを評価するためには、自動的になされてしまったカテゴライズを意図的に無視したり取り消したりしなければならないことになる。
しかし、本当にそんなことができるのだろうか。ラーメンであることを忘れ、「これ」という認識に戻すことなどできるだろうか。
もしそんなことができたとしても、そう簡単には食べられない。「安全なのか」ということから確認しなければならなくなるからだ。
ここで純粋主義者は「安全な食べ物にはカテゴライズするがラーメンにはカテゴライズしないで食べればいい」と言い出すかもしれない。
だがここでも、そんな都合の良いカテゴライズが本当にできるかどうかが問題になる。
先ほど述べた通り、カテゴライズは自分の意志とは関係なく勝手に行われてしまうからだ。それなのに、「このカテゴライズはするがこのカテゴライズはしない」というような選択が可能なのだろうか。私にはそうは思えない。
それでも純粋主義者は、「訓練したらできる」と言い張るかもしれない。しかし、それはどんな訓練なのだろうか。
また、そうした都合の良いカテゴライズに成功した場合と失敗した場合を分けるものは何なのか。こういったことが具体的に説明されない限り、純粋主義には何の説得力もないだろう。
百歩譲って、そうした都合の良いカテゴライズが可能だとしてみよう。しかし、そのときに得られる情報は興味深いものではない。
「見た目は黄色で細長く、味はしょっぱくて油っぽく、柔らかいがそれなりに噛みごたえがあり、温かい」くらいにしかならない。
この判断は多くのラーメンに当てはまるし、それどころか、ちゃんぽんやスープスパゲッティにも当てはまる。
そんな状態で味を評価しても、かなり雑な評価にしかならないだろう。自分でも何がどうおいしいのかよくわかっていない状態にあるのではないだろうか。
感想
「純粋主義」はややこしい考え方だと思いました。
下記の本を參考にしました
『美味しい』とは何か
食からひもとく美学入門
源河 亨