こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
認知的不協和
次の状況を考えてみてほしい。あなたは偶然手にとった雑誌で取り上げられていたラーメン屋に興味が湧いた。
しかし、その店は自分の住んでいる地域からだいぶ離れたところにある。しかも、店は最寄り駅から徒歩20分はかかる。
長い時間とそれなりの交通費をかけて店の前まで来たら、店の前にものすごい行列ができている。
1時間ほど並んでようやく席につき、ラーメンを食べることができた。
その翌週、またラーメンが食べたくなった。家の近所を散歩していると、偶然、先週行った店から暖簾分けした店を見つけた。
その店は先週行った本店とまったく同じ仕入れ先の材料を使っていて、調理工程もまったく同じである。しかも、先週本店であなたが食べたラーメンを作った人が偶然ヘルプで暖簾分けの店に入っており、今週もその人が作ったラーメンを食べられた。
この状況では、今週食べたラーメンは先週と比べてまったく遜色がないことになる。
しかし、いま目の前にあるラーメンと先週のラーメンを「同じおいしさ」と判断することはできないだろう。
むしろ「先週の方がおいしかったな」と思うはずである。たとえあなたがグルメだったりラーメン通だったりしたとしても、「同じおいしさ」と判断するのはかなり難しいはずだ。
というのも、人間の心には苦労して手に入れたものを高く評価してしまうクセが備わっているからである。
そのクセは「認知的不協和の解消」と呼ばれるものである。
ここで言う「認知」とは、記憶、思考、知識、欲求といった心の状態/働きのことである。
認知的不協和理論によれば、人間は複数の認知の折り合いがつかなくなっている(不協和にある)状態を嫌う。不協和状態は飢えや渇きのように不快なものであり、私たちはそれをなんとか避けようとするというのである。
先ほどの例で不協和を起こすのは、「先週のラーメンは食べるのに多くの時間と労力がかかった」「今週のラーメンは簡単にありつけた」「先週と今週のラーメンのおいしさは同じだ」の3つである。
この3つをすべて認めてしまうと、先週あなたがラーメンを食べるためにかけた時間や労力は完全に無駄だったと認めることになる。
さらに、簡単に手に入るものに時間と労力を無駄にした自分は愚かだと認めなければならなくなってしまう。
しかし、それを認めるのは非常に難しい。そのため、この3つをすべて受け入れることができず、認知的不協和が生まれるのである。
感想
たしかに、苦労して手に入れたものを高く評価してしまうことがあると思いました。
下記の本を參考にしました
『美味しい』とは何か
食からひもとく美学入門
源河 亨