こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
不協和の解消
認知的不協和を解消するにはどうすればいいのか。
目の前のラーメンを軽視すればいいのである。
つまり、「先週のよりおいしくない」と評価すればいいのだ。実際、他の二つは否定しようがない。
先週のラーメンにかけた時間や労力はどうやっても戻ってこない(過去は変えられない)。
そして、いま食べているラーメンは実際に簡単に手に入っている。
そうすると「おいしさは同じ」を否定するしかない。時間と労力をかけた先週の方が「おいしかっ
た」と思わなければ割に合わないのである。
認知的不協和の解消は食べ物の評価だけを説明するものではなく、一見すると不可解な人間の行動を広く説明してくれる。
タバコが健康に悪いと知りつつやめられないのは、「タバコは健康に悪い」という知識と「タバコを吸いたい」という欲求が不協和を起こし、それを解消するためにタバコの害が低く見積もられ、「吸っても大丈夫」と考えられてしまうからである。
また、非常に効果の怪しい高額な商品を買い続けることも説明できる。
一度その商品に手を出してしまったら、高いお金を出したという事実は消えないので、他人からいくら「そんなの怪しい、インチキだ」と言われようとも、「素晴らしいものだ」と信じなければならない。
そもそもフェスティンガーは、荒唐無稽な予言を掲げる(大洪水により世界が滅びるが信者だけはUFOが助けてくれるという) カルト宗教にはまった人たちの行動を説明するものとして認知的不協和理論を提唱している。
認知的不協和の解消によって、食べ物の判断が歪められるさまざまな場面が説明できるようになる。
高いお金を払ってありつけたものは、その分だけおいしくなければ辻褄が合わない。有名なシェフが作った有名な産地の材料が使われているものは、それだけ値段が高いので、高いぶんおいしく感じられなくてはならない。
名前が凝った料理も、そこに作り手のこだわりを感じれば、その分だけおいしいに違いないと思ってしまうのである。
また、自分で時間と労力をかけて作った料理も、それに見合うぶんだけおいしく感じられるだろう。
認知的不協和の解消は意図的になされているわけではなく、人間の心がいろんな場面で勝手にやってしまうものである。
不協和を避けようとする行動が自然と生まれてしまうのだ。
グルメやラーメン通がラーメンを評価する場面でも、こうした心の働きは自動的に生まれてしまうだろう(むしろ、有能なグルメやラーメン通、批評家であるためには、こうしたバイアスを意図的に抑えつける能力を身につけている必要がある)。
感想
認知的不協和を無くすことはできないかもしれませんが、意識することはできると思いました。
下記の本を參考にしました
『美味しい』とは何か
食からひもとく美学入門
源河 亨