こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
知識の体系性
ラーメンを食べるとき、たとえそのスープが何時間煮込まれているか、材料に何が使われているか知らなくても、私たちはそれを「これはラーメンだ」と思って食べるだろう。
そして、それを食べておいしさを評価するときには、単に「これはうまい/まずい」と評価するのではなく、「このラーメンはうまいまずい」と評価しているのではないいだろうか。
つまり、目の前の食べ物をラーメンと認識して、ラーメンにカテゴライズしたうえで、「ラーメンとして」うまいかまずいかを評価しているということだ。
実際、ラーメンと寿司とチーズケーキとコーヒーをすべて同じ基準で評価することなどそうそうない。ラーメンを食べておいしいかどうか評価するときには、通常、寿司としておいしいかどうかとは別の評価基準が使われているのだ。
こうした評価が可能になるためには、ラーメンが何であるかについていくらか知識がなければならない。
少なくとも、目の前に出てきたものがラーメンなのかそうでないのかを判定できなければならないのである。
だがそのためには「ラーメンでないもの」についてもある程度理解している必要がある。
たとえば、蕎麦、うどん、スパゲッティ、などが出てきたときに、「これはラーメンと見た目がいくらか似ているがラーメンではない」と判断できなければならず、そのためには、「蕎麦」 「うどん」「スパゲッティ」が何であるかも知っている必要がある。
もし「うどん」が何であるか知らなかったら、目の前にうどんが出てきたときに「これはラーメンではない」と言い切ることはできず、「奇抜な/新しいラーメンかもしれない」といった曖昧な判断しかできないだろう。
また、「ラーメンとはこういうものだ」という知識には、「中華料理の一種」ということも含まれている。
日本のラーメンはかなりアレンジされたものだが、中華料理にルーツがあることは確かだ。
そして、「中華料理」を理解するには、対比として「和食」「洋食」といったこともいくらか理解している必要があるし、「中華」を理解するには中国という国についてある程度知識が必要になる。
さらに、「これは豚骨ラーメンだ」と判断しようとしたら、もっと多くの知識が必要になる。
「味噌ラーメン」「醤油ラーメン」「豚骨ラーメン」が何であるかも知っていなければならないし、「味噌」「醤油」「豚骨」についても理解している必要がある。
また、「豚骨」を理解するには「豚」と「骨」について知っている必要があるだろう。
「豚」を理解するためには、動物は豚以外に種類があることを理解していなければならず、そのためには、「犬」「猫」「牛」「馬」「鳥」といった他の動物もある程度知っている必要がある。
同じく、「骨」を理解するには、「肉」や「内臓」といった体の他の部位も知っていなければならない。
ここまでの話からわかるのは、私たちがもつ知識は体系的なものだということである。
「ラーメン」が何であるかを他から独立に理解することはできず、「ラーメン」を理解するには先ほど挙げたような知識をひとまとめで理解する必要があるのだ。
もちろん、料理研究家や動物学者レベルの詳しい知識は必要ではなく、日常的に私たちが理解しているもので十分だろう。
とはいえ、「これはラーメンだ」と判断するために実にさまざまな知識が必要となることは確かだ。
以上のような知識は感覚器官を通して得られる知覚的情報をはるかに超えている。むしろ、本で読んだり人の話を聞いたり、言葉を介して理解したものが大きく寄与しているだろう。
そうすると、「これはラーメンだ」という単純な判断も、言葉を介した情報に下支えされていることになる。
確かに、「これはラーメンだ」という判断を下すとき、言葉を介した情報が積極的に使われているようには思えない。
だが、言葉は、さまざまなものを分類したり、理解したり、私たちが何気なく行っている行動を下支えしているものである。下支えしているからこそ目立ってはいないが、それなしには単純な判断や行動さえ成り立たないのだ。
感想
評価が可能になるためには、ラーメンが何であるかについていくらか知識がなければならない、という箇所がおもしろいと思いました。
何の知識も無しに評価するのは確かに無理です。
下記の本を參考にしました
『美味しい』とは何か
食からひもとく美学入門
源河 亨