とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

文化的相对性とは

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


文化的相对性

 


ある飲食物をおいしく感じるかどうかには文化差がある。

 


アメリカの食文化で育った人はルートビアをおいしいと言うが、日本の食文化で育った人はまずいと言う。

 


同様に、ジンギスカンをよく食べる北海道の人はラム肉が好きだろうが、慣れていない人は臭みが強くて食べられないと言うかもしれない。

 


他にも、中国の臭豆腐フィンランドのサかルミアッキ、スウェーデンシュールストレミングなど、おいしいかどうかについて正反対の評価が下されるものがいくつもある。

 


このように、文化が違えば同じ食べ物に対する評価が違ってくる。

 


これとは対照的に、どこかの文化に属する人でも、たいていは同じ構造の舌・味覚神経・脳の味覚野をもち、そのため味に関して同じような反応をする。

 


大多数の人は砂糖を舐めれば甘く感じ、トウガラシを食べると辛く感じるのだ。

 


もちろん、普段の食生活によって個人差は出てくる。辛い食べ物が好きな人は、他の人が激辛で食べられないと言うものを食べても「そこまで辛くない」と言うだろう。

 


しかし、辛いものを食べて「甘い」と正反対のことを言うことはないはずだ。これに対し、「おいしい/まずい」ではそれくらい正反対の意見が出てくるのである。

 


そうすると、「おいしい/まずい」という評価は、舌や味覚神経や脳といった人間がもつ生物学的特徴では説明できないことになる。

 


むしろ、何が「おいしい/まずい」と評価され

るかを説明してくれるのは文化だ。

 


自分が生まれ育った地域でよく食べられていたものは「おいしい」と感じられるが、他の文化の食べ物はそうではないということだ。

 


そして、地球上にはさまざまな食文化があり、「人類の大多数の人が属する文化」というものはない。

 


そうすると、色や味のように人類の大多数が「おいしい」と認めるもの、人間なら「普通これがおいしく感じる」と言えるものはなさそうだ。

 


さらにそこから、おいしさに関しては、標準を設定できないということになる。

 


標準が設定できないなら、その標準と一致しているかどうかも判定できない。そうであるなら、一致によって評価の正誤を判定することもできない。

 


「おいしい」 「まずい」は正しさを問えるような判断ではないということだ。そこから、食に関する評価的判断は性質帰属ではなく、正誤を問えるものではないという結論が導かれる。

 


このようにして、文化的相対性から主観主義が支持されるのだ。

 


同様の議論は食以外でも展開できる。自分とは異なる文化の絵画や音楽、ファッションの良さはよくわからない。この文化ではカッコいいとされるものが、別の文化からするとどうしようもなくダサいということもある。

 


さらに、評価は時代によっても変わってくる。1980年代にカッコいいとされていた音楽やファッションは2000年代前半にはこの上なくダサいと思われていたが、2020年代には再評価がなされている。

 


何がおいしい/美しい/カッコいいと高く評価され、何がまずい/醜い/ダサいと低く評価されるかは、時代や文化に相対的であり、唯一の正解はないと考えられるのだ。

 


感想

 


確かに、時代や文化によって評価が変わることはあると、改めて思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『美味しい』とは何か    

 食からひもとく美学入門

 源河 亨

 中公新書

 

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