こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
知覚と評価の分かれ目
評価と記述的判断のさらなる違いを理解するために、フランク・シブリーという美学者の考えをみてみたい 。
記述的判断の例として「これは赤い」「これは甘い」を挙げた。
赤さや甘さといった性質は、眼や舌といった感覚器官が適切に働ければ誰でも捉えられるものである。
逆に記述的判断が下せない場合には感覚器官がうまく働かなくなっているだろう。
舌が麻痺して甘さを感じなくなったのでアイスクリームが甘く感じないとか、照明が暗くて眼に十分な光が入ってこないので物の色が見えない、といったことだ。
感覚器官がうまく働くという条件は、評価を下すうえで必要なものである。舌が麻痺して味がわからなければ(どれくらい塩味がしてどういった甘さがあるか感じ取れない、など)、おいしいかまずいかも判断できないだろう。
照明が暗くて絵画の色合いがよくわからなければ
美しいのかどうか判断できないのと同じだ。
しかし、感覚器官がうまく働けば必ず評価が下せるわけでもない。食にこだわりがない人は、たとえ舌は正常に機能していたとしても、何を食べても「まぁおいしい」とか「ふつう」としか言わない。
他方でグルメと言われる人は、食にこだわりのない人が「同じくらいおいしさ」と言った二つの料理を「こっちの方がおいしい」「こっちはそんなにおいしくない」と判定することができる。
この対比は芸術やファッションの方がわかりやすいかもしれない。
ある絵画を二人が見たとき、片方は何が良いか悪いかよくわからないが、もう片方はその作品を絶賛したり、逆に酷評したりすることがある。
しかし、二人の視力に大きな違いはない。それどころか、良さや悪さがわからない人の方が視力が良い場合さえある。
同様に、視力が良くても服に無頓着でダサい格好をしている人もいるし、視力が悪くておしゃれな服装をしている人もいる。
こうした例を考えると、作品や服装の良さがわかるかどうかは、知覚能力が優れているかどうかとは別だとわかるだろう。
評価を下すためには単なる知覚能力以上のものが必要とされる。
知覚能力がうまく働かなければ記述的判断も評価も下せないのは確かだが、だからといって知覚能力が働くだけでは評価を下すことはできないのである。
感想
知覚能力がうまく働かなければ記述的判断も評価も下せないのは確かだが、だからといって知覚能力が働くだけでは評価を下すことはできないのである、という最後のところに納得させられました。
たしかにその通りだと思います。
下記の本を參考にしました
『美味しい』とは何か
食からひもとく美学入門
源河 亨