こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
観光客の視点
ぼくはこの本では、世界を見るときに、「観光客の立場を取ることの重要性を語りました。
ぼくがそのようなことをことさら訴えた理由は、いま世間では、「当事者」の言葉があまりにも万能になっていると思われたからです。
当事者という言葉は、この10年ほどで急速に普及しました。中西正司さんと上野千鶴子さんの共著「当事者主権』(岩波新書)が出版されたのが、2003年年のことです。
ジェンダーやマイノリティや障害者の問題は、かつては「専門家」が「上から目線」で語るものでしたが、いまでは当事者の声がなによりも尊重されるように変わってきています。
政治や報道の場でも、いま問題に巻き込まれているひと、いま解決を必要としているひとの意見が、多く紹介されるように変わってきました。
背景にはネットの普及も影響していることでしょ
う。ぼくもむろん、この動き自体はよいことだと考えます。
けれども、その動きが進みすぎて、当事者の言葉「だけ」が尊重されるようになるとすると、それもまた問題です。
なぜならば、ものごとの解決には、第三者の、つまり当事者以外の視点が必要なことが多いからです。
本来は、そのような視点こそが「理念」と呼ばれるものです。理念は、よい意味でも悪い意味でも、個別の利害からあるていど離れているからこそ、理念になりえます。
みなが、おれが当事者だ、まずはおれの話を聞け、おれのほうが抑圧されているんだと叫び合う状態では、議論は成立せず、政治は利害調整しかやることがなくなってしまうことでしょう。
実際、この国でも、ひとむかしまえは批評家とか知識人とか言われるひとがたくさんいて、日本の未来や世界の行方などについて侃々諤々の議論をしていました。
けれども、最近はそんな光景はめっきり見なくなってしまいました。それどころか、若いひとたちなんの根拠もなく、そのような抽象的な議論の伝統そのものを軽蔑し拒絶しています。
ぼくは、この本を、そのような現状に抗うために出版しました。
観光客は、当事者とは対照的な立場を表す言葉です。当事者の言葉イコール正義の言葉だと思われているいまの日本では、本書の主張は、とても奇異に映るかもしれません。
でも、ぼくは、それがいま必要なことだと思ったのです。
いま日本は、否、世界は、さまざまな問題を抱えています。そのなかで、みなが、おれが弱者だ、おれが被害者だ、おれこそが差別されているのだと、終わりのない「当事者間競争」を仕掛け始めているように思います。
声をあげているのは、もはやマイノリティだけではありません。日本でもアメリカでもヨーロッパでも、いまやマジョリティこそが最大の弱者であり、被害者なのだといった倒錯的論理が急速に力をもち始めています。
当事者間競争は排外主義につながります。本書でぼくは、幼いこどもを連れてじつにあちこちに「観光」に出かけていますが、そのようなことは徐々に難しくなっていくのかもしれません。
感想
たしかに、当事者だけの意見に耳を傾けるのは危険だと思いました。
下記の本を參考にしました
『弱いつながり』
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東浩紀著