こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
無責任を怖れない。
日本人は、会社や町内会など、自分が所属している狭いコミュニティの人間関係を大切にしすぎていると思います。
人間関係は少しおろそかにするぐらいがちょうどいい。
作家の平野啓一郎さんが「分人化」という概念を提唱しています。
一貫した個人であることをやめて、それぞれのコミュニティに最適化した「分人」になろうという呼びかけです。
親のまえ、子どものまえ、会社の同僚のまえ、趣味の仲間のまえ、ネットの仲間のまえ・・・・・それぞれで、違う人間でもいいじゃないかというわけですね。
平野さんはこの提案を、人々の「村」へのこだわりを軽くするために行っています。その思いは共有するのですが、このアイデアには同意できない。
分人化というのは、複数の村と関係をもつのであれば、名前を使い分けてそれぞれの村の「村人」にきっちりなっていこうという発想です。
しかし、あっちではこのキャラで、こっちでは別のキャラで……という立ち回りは、いっけん賢いようですが体力をひどく消耗します。
それこそ窮屈な生きかたです。
ぼくが推奨するのはむしろ観光客でいることです。
所属するコミュニティがたくさんあるのはいいことです。ただ、そのすべてにきちんと人格を合わせる必要はない。話も全部は理解する必要はない。
一種の観光客、「お客さん」になって、複数のコミュニティを適度な距離を保ちつつ渡り歩いていくのが、もっとも賢い生きかただと思います。
言い換えれば、あるていど無責任になろうということ。
どこかのコミュニティに所属するたびに、そこで村人としてきっちり責任を果たしていこうと考えたら、できることは限られてしまいます。
ある場所では村人でも、別の場所では無責任な観光客だからこそできることがある。そう考えてほしい。
日本人はとにかく村人が好きです。正社員が好き。ウチとソトを分けて、ウチで連帯するのが好き。
そんな息苦しい環境は無視し、観光客であることを誇りに思いましょう。
感想
所属するコミュニティがたくさんあるのはいいことです。ただ、そのすべてにきちんと人格を合わせる必要はない。話も全部は理解する必要はない。
という箇所が特におもしろいと思いました。
このくらい適当に考えれば、確かに楽です。
下記の本を參考にしました
『弱いつながり』
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東浩紀著