こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
臓器売買は許されるか?
私はここでは自分の臓器を売った人はその後も後悔しないと想定する。
奴隷になってしまった人は、もはや主人の厚意によらなければ自由人=自己所有者に戻る救いはないが、臓器を売った人はある程度の苦痛や不都合を蒙るとしても、立派な自己所有者だからである。
とすると、リバタリアニズムは臓器売買を許可すべきだということになる。
しかしリバタリアンである私でさえも、臓器売買はすべきでないという強い理論以前の直観を抱いているし、大部分の人々もその直観を共有しているだろう。
自己所有権テーゼは最終的には人々の持っている道徳的直観に訴えかけるしかない。
それと同様に、臓器売買の禁止も人々の直観に訴えかけて正当化できるのではないか?
確かにわれわれは臓器売買に対して、その理由は何であれ、嫌悪感を持つ。しかし当事者は、その嫌悪感を持っていないか、持っていてもそれほど強くは持っていないからこそ、売買をするのである。
私が臓器売買に嫌悪感を抱くのは、私が自分の臓器を金銭に替えられないほど大切なものだと考えているからである。
本人が臓器を売ろうとするのは、自分の臓器よりも代価の方が価値があると考えるからである。
その際、臓器売買の禁止は当事者に対してわれわれの幸福観や人生観を押しつけ、彼らが臓器売買を通じてより良い生活の機会を得ようとする自由を禁止することになる。
赤の他人にすぎないわれわれが、どうして当事者に代わって、その意思に反してまで、彼らの行動を決定すべきなのか?
契約の履行から生ずるさまざまの利害得失に関する彼らの評価それはしばしば言語化もされないし、特に意識されていないことさえ多いを他の誰よりもよく知っているのは、当事者自身である。
彼らの選択の利益を受け、コストを負うのも、彼ら自身である。これらの考慮は臓器売買を禁止すべきでない根拠になる。
臓器売買への嫌悪感は自分が臓器を売ったり買ったりしない理由になるし、他人による売買を止めさせるべく説得する理由にもなるかもしれないが、それを強制的に禁止する根拠にはならない。
これに対して、自己所有権テーゼを共有しない人に自己所有権テーゼを強要することは、彼らにわれわれの幸福観を押しつけているのではなくて、彼らが彼らの幸福観をわれわれに押しつけてくるのを妨げているにすぎないから、という立派な理由がある。
道徳的議論では道徳的直観は無しにはすまされないが、すべての直観がそのままの形で尊重されるべきでもない。
感想
私が臓器売買に嫌悪感を抱くのは、私が自分の臓器を金銭に替えられないほど大切なものだと考えているからである。
本人が臓器を売ろうとするのは、自分の臓器よりも代価の方が価値があると考えるからである。
という箇所がおもしろいと思いました。
当たり前だけど、改めてこういうことだと思いました。
下記の本を參考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進