とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

幸福の基準

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


「幸福とは何か」という問い

 


体温を計るために体温計という便利なものがある。

 


それと同じように、幸福を計るための「幸福メーター」があって、額にしばらく当てると当人の幸福度が測定できるのであれば、功利主義者にとっては大助かりである。

 


しかし、残念ながら幸福そのものを直接計る機械はまだない。

 


もちろん、人々に「あなたは幸福ですか」と尋ねることはできる。これは主観的幸福感を調べるやり方だ。

 


たとえばJGSS-2000という調査では、2000年に日本人男女約3000人に幸せの程度を五段階で尋ねた。すると、約6割が「幸せ」「どちらかというと幸せ」と答え、約3割が「幸せとも不幸せともどちらともいえない」と答え、「どちらかというと不幸せ」あるいは「不幸せ」と答えたのは1割以下だったという。

 


また、2005年に行なわれた世界価値観調査では、日本人男女約1000人に「非常に幸せ」「やや幸せ」 「あまり幸せでない」「全く幸せでない」の4択で質問したところ、全体の87.2%が「非常に幸せ」あるいは「やや幸せ」と答えた。

 


同様の調査をした25カ国のうち、1位はニュージーランド(96.4%)、2位はスウェーデン(95.9%)、最下位はイラク (52.2%)で、アメリカは5位(92.8%)、韓国は12位(87.4%)、中国は22位(76.1%)、日本は14位だった。

 


これはこれで参考になるデータだ。しかし、本人に幸福かどうかを尋ねる幸福メーターとしてはいくつか問題がある。

 


まず、本人が正直に答えているかどうかがわからない。本当は不幸だと思っていても選択肢の「不幸せ」の欄に丸を付けるのには勇気がいるだろう。

 


また、幸せだと思っていても、「非常に幸せ」に丸を付けるのはなんだか脳天気で馬鹿みたいだ。

 


そこで、つい「やや幸せ」とか「幸せとも不幸せともどちらともいえない」に丸をつけてしまうかもしれない。

 


幸福であることや不幸であることを大っぴらに言えるかどうかは、国ごとの文化差もあるだろう。

 


また、仮に調査に協力した人々全員が正直に答えているとしても、より大きな問題がある。

 


これは、本人が心から幸せと思っていても、客観的に見て幸福と言えるとは限らないという問題だ。

 


これは、本人が健康だと思っていても、実はそうではない場合があるのと同様である。

 


本人に幸せかどうかを尋ねることはある程度の参考にはなるものの、幸福メーターとしては必ずしも信頼がおけるものではないのだ。

 


一方、経済や政治の分野では、長い間、GNP (国民総生産)あるいはGDP(国内総生産)が一国の幸福メーターになると考えられてきた。

 


しかし、先進国では1960年代以降、GDPの増大が国民の幸福の増大につながっていないという指摘がなされてきた。

 


これは幸福のパラドクスと呼ばれるが、何もパラドクスというほどのものではない。衣食住のニーズを満たすためにある程度お金があることは、幸福であるための必要条件だ。

 


しかし、それだけで人が幸福になれるわけではないことは、多くの人が実感しているところだろう。

 


そこで最近、政府が政策の方向性を決める際の参考にするために、より信頼のおける幸福メーターを作ろうという試みがなされている。

 


たとえば内閣府は「幸福度に関する研究会」を2010年に発足させた。その研究会が2011年12月に出した幸福度指標試案はインターネットで読むことができる。

 


それによると、幸福度を計るさいには、人々の主観的幸福感を参考にしつつも、それに加えて、

経済社会状況、心身の健康、関係性といった客観的な指標を組み合わせるとしている。

 


複合的な幸福メーターというわけだ。

 


しかし、ここで問題が生じる。いったい、こ

れらの客観的な指標は、幸福とどのような関係

にあるのだろうか。

 


これらが幸福の要素だとすると、これらの指標に共通する性質は一体何なのだろうか。

 


この問いは少し抽象的でわかりにくいかもしれない。そこで、プラトンの『メノン』という対話篇の中でソクラテスが出した問いを例に挙げて説明してみよう。

 


ソクラテスがメノンに「徳とは何か」と尋ね

た。するとメノンは、男の徳には国政をよく行

うことや、味方を守り敵を害するといったもの

があり、女性の徳には家庭を守り男性に従うと

いったものがあると答えた。

 


ソクラテスはこの答えに対して、それは自分が尋ねたかったことではないと言う。徳と呼ばれている事柄にはどのようなものがあるかは自分も知っている。

 


そうではなく、それらの事柄すべてが徳と呼ばれるゆえんであるところの、それらに共通する性質は何なのか、とソクラテスは問い直すのだ。

 


幸福についても同じ問いが成り立つ。十分な所得や富を持つことや、心身ともに健康であることや、家族や友人を持つことは、幸福に役立ちそうなことは容易に想像がつく。

 


しかし、所得や富、健康、家族や友人といったものが共通して持つ、われわれの幸福に与える影響とは、いったい何なのだろうか。

 


これが「幸福とは何か」という問いによって尋ね

たいことなのだ。

 


感想

 


個人的には衣食住が満たされれば、それで幸福だと思います。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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