とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

人間は合理的に行動するか

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


人間はどこまで合理的か

 


功利主義的な公衆衛生活動には二つの志向があった。

 


筆者は、チャドウィックが体現していると考えられる権威主義的な公衆衛生活動は今日においては現実的ではないと考える。

 


そこで、ミルの自由主義的な公衆衛生活動を修正することにより、現代の公衆衛生活動を基礎づける規範理論を提示したい。

 


近年注目を集めている政治哲学的な立場に、リバタリアンパターナリズムがある。

 


これは、政府は人々が自らの最善の利益を追求できるように配慮するが、あくまで強制はせず、各人が異なる選択肢を選べる自由を保障するというものだ。

 


セーラーとサンスティーンがこの立場を「ナッジ」と呼んで有名になった。ナッジとは「肘でつっつく」とか「背中を押す」という意味だ。

 


ナッジと聞くと、モンティ・パイソンの有名なスケッチを思い出す人もいるだろう(知らない人はYouTubeで見てほしい)。

 


パターナリズムは本人の意思に反して何かを強制的にやらせるというイメージが強いが、ナッジはある行為を強制するのではなくそれを選ぶようにうまく誘導するというイメージだ。

 


リバタリアンパターナリズムは一見してミルの自由主義の立場に近いが、ミルにはあまり見られなかった興味深い視点があるので、それを紹介しよう。

 


リバタリアンパターナリズムは、「人間はあまり合理的に行動しない」という仮定から出発している。

 


たしかにこれはわれわれの実感に合っている。経済学者が前提する古典的な人間像は、「どうすれば自分の幸福を最大化できるか」ということをいつも考えながら思慮深く行動している人である。

 


しかし、現実にはこんな人はあまりいないだろう。多くの場合、われわれ、 は冷静に考えに考えれば選ばないであろう行動をその場の勢いでつい選んでしまうもの、とりわけこの傾向が顕著だとされるのは、健康行動である。

 


たとえば、 やせたいと思っているにもかかわらず、コンビニのレジの前にチョコレートが置いてあればついそれを買ってしまう。

 


また、体調が悪くて今日は飲酒はやめておこうと思っていても、 夜の飲み会で、「生中の人、手を挙げて」と言われると周りの人につられてつい手を挙げてしまう。

 


そしてこうした行動は、ほとんど意識されないままになされるのだ。

 


われわれが健康行動においてこのように不合理な行動をしてしまうのはなぜなのだろうか。

 


一つには、われわれはしばしば現在の快苦を過大評価する傾向にあるためだろう。

 


たとえば、食べ過ぎたり飲み過ぎたりすると、将来、肥満や痛風に悩まされる可能性があるとわかっていても、健康に関する行動の帰結の多くは年単位の間を置いて現れるため、その苦痛は軽く見積もられてしまう。

 


現在の快苦を過大評価し、将来の快苦を過少評価する。

 


このような傾向は、心理学では現在バイアスと呼ばれる。

 


また一つには、広告会社や小売店がわれわれの理性ではなく情動に働きかける宣伝を行ない、われわれはあまり考えることなしにそれに影響を受けた飲食習慣を形成しているからだろう。

 


筆者が好きな例は、以前あった某清涼飲料水の No Reason というコマーシャルだ。

 


おそらくあの宣伝のメッセージは、何を飲むかについて自販機の前で考える必要はなく、とにかくこれを飲んでいるとかっこいいからこれを飲め、というものだろう。

 


こうしたコマーシャルや広告によって、われわれが何を食べ何を飲むかは、「健康によいかどうか」という基準ではなく「好きか嫌いか」という基準によって決められる傾向が強まるのだ。

 


「ミルは、欲求が比較的安定しており、外的な影響によって人為的に刺激されることの少ない中年男性の心理を、通常の人間が持っていると考えがちであった」。

 


20世紀後半に活躍した法哲学者のH・L・A・ハートはこのように述べた。

 


つまり、ミルの合理的な人間像に反して、われわれの多くは欲求が不安定で外的な影響に左右されやすい存在であり、しばしば不合理に行為すると言うのだ。

 


そうだとすれば、ある程度まではパターナリスティックな規制をして、望ましくない選択肢を選べないようにした方が、結果的に人々は合理的に行為できるだろう、というのがハートの考えである。

 


一方、リバタリアンパターナリズムでは、人々がより健康的な選択肢を意識的に選ばうとしなくてもそうできるように環境の方を変更しようとする。

 


たとえば、コンビニのレジの前にはチョコレートの代わりにバナナを置いておくとか、生ビールはジョッキではなく、グラスやお猪口で出すのを普通にするなどだ。ただし、個人の自由を保障するために、不健康な選択肢も選択できるように残しておく。

 


この点がリバタリアンパターナリズムと通常のパターナリズムの違うところだ。

 


感想

 


ミルの合理的な人間像に反して、われわれの多くは欲求が不安定で外的な影響に左右されやすい存在であり、しばしば不合理に行為するという箇所がおもしろいと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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