とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

功利主義にこだわり過ぎると

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


規則や義務の重視

 


たとえば、ドイツの哲学者カントを批判する文脈でよく出される例を挙げよう。

 


あるとき、わたしの友人がわたしの家に駆け込んできて、「自分を殺そうとしている人に追いかけられているから匿ってくれ」とわたしに言う。

 


わたしは友人を家に入れて匿うことにする。しばらくして、友人を追っている人がわたしの家にやってきて、わたしに友人を匿っていないかと問う。さて、わたしはどうすべきか。

 


厳格なカントは、この場合でも嘘をついてはいけないと言う。つまり、「ええ、その人、うちのどこかに隠れてますよ」と言わなければならないというのだ。

 


なぜなら、カントの考えでは、嘘をついてはいけないという道徳的義務は絶対的なものであり、誰に対してであろうと、どのような場合でも嘘をついてはいけないからだ。

 


ついでに言えば、カントは、物事の結果というのはわからないものであり、その追っ手が家の中を探している内に友人は裏口から逃げ出しているかもしれないから、正直に答えても友人は死なないかもしれないと述べている。

 


ドイツの家は大きいだろうからそういうこともあるかもしれない。

 


だが、日本のワンルームマンションで、風呂場にも窓がないような場合、 あまりそういう可能性はなさそうだ。

 


それはともかく、現代の功利主義は、洗練されている。

 


功利主義的に行為するために、ひたすら最大多数の最大幸福のことばかり考えて行為する「功利主義マシーン」になる必要はないとする点だ。

 


現代の功利主義者の多くは、家族への義務や、さまざまな道徳的規則を考慮しながら行為していれば、人々は結果的に功利主義的に行為することになる、と考えている。

 


かつてベンサムの弟子の一人のジョン・オースティンという功利主義者は、この考えを次のように表現した。

 


「健全で正統な功利主義者は、《彼氏が彼女にキスするさいには公共の福祉について考えていなければならない》などと主張したことも考えたこともない」。

 


功利主義者は年がら年じゅう、功利原理を用いて意思決定する必要はないとするこの考え方は、現在では「間接功利主義」と呼ばれる。

 


それに対して、ゴドウィンは少なくとも最初のうちは、立派な功利主義者は最大多数の最大幸福について始終考えていなければならないと考えていたので「直接功利主義」の立場を取っていたと言える。

 


感想

 


たしかに、行き過ぎた功利主義は、柔軟性に欠けるかもしれないと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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