とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

ゴドウィンの過激な主張

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


ゴドウィンの過激な主張

 


ゴドウィンは、のちに大きく考え方を改めることになるのだが、主著『政治的正義』を発表した当初は、ある人が自分の家族や友人であるという理由からその人を優先することは許されないと強く主張していた。

 


ゴドウィンが用いたフェヌロン大司教のケースを 紹 介しよう。

 


フェスロン大司教のケース

 


火事の建物に二名の人が閉じこめられており、いずれか一人しか助け出せない状況にある。そのうちの一人は、名著『テレマコスの冒険』 を書く前のフェスロン大司教であり、もう一人は、フェヌロンのメイドであるが、そのメイドとはたまたま自分の母親でもある。

 


二人のうちのいずれかしか助けられない場合にどうすべきだろうか。

 


ゴドウィンは、「人をひいきしない」のが正義の原理だと述べ、メイドが母親であろうが誰であろうが、迷わずにフェスロンを助けるべきだと考えた。

 


彼の説明はこうだ。

 


我々は、社会、国家、そして人類という、ある意味では大きな家族の全体と結びついている。その結果、全体の善に最も寄与する人の命が選ばれるべきだということになる。

 


大司教にして小説家であるあのフェスロンの命を私が救うとしよう。

 


このとき私は、「テレマコスの冒険」を熟読することによって、犯した過ちゃ悪事、その報いとしての不幸から癒されるに違いない何千もの人々の利益を増大させたことになるだろう。

 


いや、おそらくそれにとどまるものではない。

 


というのも、癒ながされた人々一人一人が社会のよりよい成員となって、今度は他の人々の幸せ、学識、向上に貢献するからである。

 


ゴドウィンは、仮に自分自身がメイドだったとしても、自分が死ぬことでフェヌロンを助けられるなら、進んで自らの死を選ぶべきだと言う。

 


「それをさかさまにして、大司教が死ぬようなことになったとしたら、それは正義への冒瀆侵害というものだ」

 


ゴドウィンは功利主義の特徴である「公平性」という考え方を極端にまで突き詰めて、自分や自分の家族を無条件で優先することを認めてはならないという主張を行なっている。

 


彼は、「わたしの (my)」という言葉に道徳的な重要性を認めることを断固として拒否し、以下のように述べた。

 


「わたしの」という所有代名詞になんのことがあろうか。その中に、不変の真理の決定をひっくり返せるような魔法の仕掛けがあるとでもいうのか。

 


愚か者か淫売、性悪で嘘つきで不誠実、それが私の妻ないしは私の母だったかもしれない。

 


そのとき、その女が私の妻もしくは母であるからといって、いったいどんな結論が出てくるという

のか。

 


このようにゴドウィンは、ある人が 「わたしの」家族や友人であるという理由だけで、特別扱いすることを強く批判している。

 


ただし、彼の考えでは、メイドであるわたしの母

親がフェヌロンより良い本を書けるのであれば、話は別である。

 


だが、その場合、そのメイドが「わたしの母親」であることが重要なのではなく、「よい本を書ける能力」を備えていることが重要なのだ。

 


読者はこのようなゴドウィンの考えをひどいと思うかもしれない。 常識的に考えれば話は逆だ。

 


わたしにとって自分の母親が重要なのは、まさに自分の母親であるからであり、母親がすばらしい本を書ける人なのかどうかは本質的な問題ではない。

 


親であれ子どもであれ、自分の家族に対する愛情というのは無条件なものであり、親や子どもの出来がいかに悪くとも、家族以外の人よりも大切にするべきだ。

 


これがわれわれの常識的な考え方だろう。

 


感想

 


社会全体の利益を考えるなら、ゴドウィンの主張も説得力があるとぼくは思います。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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