とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

リバタリアニズムと社会福祉

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


リバタリアニズム社会福祉の必要を認めないのか?

 


多くのリバタリアンは公的社会保障の必要性を認めようとしない。

 


むしろ社会保障は、現代の福祉国家に見られるような非効率的な官僚制度の肥大化と、政府による生活への介入をもたらすとして批判される。

 


だが私は、最小限の社会保障リバタリアニズムも認めるべきだと考える。

 


画一的で各人の個別的な事情や価値観を考慮しない公的保障よりも、自助と私的相互保障に委 ねる方が大部分の人にとって満足できる結果をもたらすということは言えるだろう。

 


しかし、自分の責任ではない事情のために、自分の能力と財だけでは生きていけない人もいる。

 


これらの人々を支援する、私的な相互扶助組織や慈善団体の役割を過小評価するつもりはないが、それらの活動からもすくい落ちてしまう人々が出てくる可能性を否定することはできない。

 


だから最後の保障として、政府による公的保障が正当化できるだろう。

 


もっとも個人が持っている道徳的権利は純粋に自己所有権だけだと考えれば、国家による社会保障はやはり正当化しがたい。

 


だが自己所有権だけが自然権ではないと考えて、人道主義的な考慮から最低限の生存権も認める方が自然だろう。

 


それには自己所有権と同じような強い説得力がある。

 


リバタリアニズムの古典的文書であるジョン・ロックの『統治論』も、「正義が万人に自らの誠実な勤勉の産物と先祖から伝えられた正当な獲得物への権原を与えるように、慈愛は、他に生きていく手段がない場合、極端な欠乏から自らを救うだけの分の他人の余剰物への権利を万人に与える」(第一篇第四二節) と言っている。

 


これは政府が成立する以前の状態について言っているが、政府が存在する場合は、政府に生存権実現の責務が負わされると考えてよいだろう。

 


ただしこれはあくまでも日本国憲法第25条に言うような「健康で文化的な最低限度の生活」の保障であって、それを超えた公的な年金や雇用保険(失業保険)や医療保険まで含むものではない。

 


リバタリアンの社会ではこれらの制度は民間に委ねられる。

 


感想

 


最後の砦的なセーフティネットは必要だとぼくも思います。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

flier(フライヤー)