とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

親の監督権

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


子供に対する親の監督権

 


家族共同体には自治を認めるべきではないのか? 個人主義リバタリアンも、それを認めるべきではないとは言いにくいだろう。

 


小さな子供はまだ十分な知力も体力も経験も知識もないから、社会の中で独り立ちすることができない。

 


子供が成長するためには誰かが面倒を見なければならないのである。

 


子供はそれまでの間は保護者の監督下に置く必要があり、いつも自分の選択通りには生きられない。

 


そして誰が保護者としてふさわしいかといえば、実際問題としてそれはたいていは生みの親だろう。

 


それに加えて、大部分の場合、親は随意的に子供を作ったのだから、その養育の義務は自分が引き受けるのが公平である。

 


だから特別な事情がなければ、生みの親が子供を育てる権限と義務の両方を持つ。しかし、保守的なリバタリアンが想定しているほど、親の権限は絶対的なものではない。

 


かりに親が子供に最低限の扶養や教育を与えなければ、その権限は、国民の人権を守るべき任務を負った政府によって、制限されたり取り上げられたりしてもやむをえない。

 


リバタリアンとしてはそう考えるべきだろう。

 


リバタリアニズムは人々を、自由で権利を持ち責任を負う個人として尊重しようとするが、子供についてはこの原則を徹底できない。

 


そこにおける子供の地位は、見習い中の人格とでも言えよう。それは将来十分な能力を持つはずの人間として尊重されるが、今はまだその状態に達していないために、養育を受ける権利を持つと同時に、パターナリスティックな制約も受けるのである。

 


そうすると親が子供に対して持つ支配権は、子供が将来社会の中で生きていくために必要な能力を与えないような仕方で行使することは許されない。

 


この制約が子供に対する親の教育権も制約する。

 


具体的には、子供に基本的な読み書きや計算の能力や、物理的・社会的両方の意味での世界についての基礎的知識を与えなければならない。

 


親が子供に特定の宗教や思想を教えることは構わないが、子供がそれを批判的に検討する能力を持てないようにすることは許されない。

 


そして子供が成長して独り立ちできるようになったならば、もはや親の支配権は正当化できない。

 


感想

 


たしかに、子供に対する親の監督権は絶対的なものではないかもしれないと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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