とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

将来世代への配慮

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


将来世代への配慮

 


環境問題へのリバタリアニズムの回答について、私自身、大きな疑問が残っていると考えている。

 


遠い将来の世代への配慮である。

 


リバタリアンは、資源は公有財産であるよりも私有財産である場合の方が有効に、長持ちするように利用されると主張する。それは、私的な所有者が資源を長期的な視野に立って利用するからである。

 


しかし多くの所有者は自分の生きている間の資源の保持は考えても、死後のことまでは考えないだろう。

 


死後の遺産相続人(多くの場合は自分の子供。しかし、私自身は遺産相続の制度の正当性を疑っている)による利用までは、ある程度考慮に入れるかもしれないが、何代も先の将来の世代まで真剣に配慮するとは考えられない。

 


すると、資源の私的所有の絶対化は、遠い将来の世代に、資源の枯渇や地球の温暖化などの形で、つけを回すことも想像しうる。

 


リバタリアンは、これらの環境「危機」は事実と科学的議論の裏付けもないのに誇張されていると考える。

 


また地球の温暖化がかりに事実だとしても、それはこれまで植物が育たなかった不毛な寒冷地を耕作可能な土地にするから、悪いことではないと主張する。

 


この主張にはもっともな点があるが、現代の世代と将来の世代の利益の衝突の可能性という基本的な問題に触れるものではない。

 


その問題に対するリバタリアニズムの一つの可能な答えは、「リバタリアニズムが尊重する権利は、現在の権利者およびその生成過程にある人々だけだから、まだ生まれてもいない、特徴も人数も特定できない、漠然たる『将来の世代」に配慮する必要はない」というものである。

 


しかしこの答えは、かえってリバタリアニズムの説得力自体を減殺してしまうだろう。

 


リバタリアンも将来の世代への何らかの配慮義務を認めるべきである。

 


自らの財産の所有権が他人の人身と財産を侵害する自由を含まないように、現在の世代の権利は将来の世代の人身を侵害する自由を含まない。

 


また最低限度の生存への機会も将来世代に保障されるべきである。

 


だから現在の隣人だけでなく、将来の世代の生存や健康を損なうような環境汚染も禁止されてしかるべきである。

 


現在の大気や河川の汚染を私的所有権によって禁止するだけでも環境汚染は大幅に減少するだろうが、それだけでは抑制できない長期的な環境汚染も存在するだろう。

 


ただしこのことは、将来世代が現在の世代よりも暮らし向きがよいということまで保障するものではないし、世代間の平等を要求するものでもない。

 


具体的に言うと、土壌や森林のように時間はかかっても再生可能な資源は回復不可能な形で枯渇させてはならないが、石油のように再生不可能な資源は、いつかは誰かが使いきってしまうしかないものだから、その使用を強制的に制約する理由はない。

 


それに希少になった資源は価格が高騰するから消費が抑制され、また代替的な資源や技術が探索されるはずである。

 


現在も将来も、エネルギーや食糧は人類の生存の必要を満たす以上に生産されるだろう。

 


むしろ問題は、政治的・経済的自由の抑圧のために一部の人々がそれを十分に手に入れられないことである。

 


感想

 


リバタリアニズムが尊重する権利は、現在の権利者およびその生成過程にある人々だけだから、まだ生まれてもいない、特徴も人数も特定できない、漠然たる『将来の世代」に配慮する必要はない」という箇所がおもしろいと思いました。

 


確かに、そんな未来まで配慮しなければならないとしたら大変だと思います。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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