とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

格差と政治腐敗のどちらかが問題か

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


経済的不平等と政治的支配

 


ここでリバタリアニズムと政治との関係に戻ろう。 リバタリアニズムへの反論として、市場経済が生み出す経済的不平等はそれ自体で不正だが、かりにそうでないとしても、政治的権力の不平等、さらに支配服従関係をもたらすから不正だ、と言われることがある。

 


リバタリアニズムは政治を不当にも市場経済の領域に一元化してしまうというのである。

 


これに対してリバタリアンは次のように答える。

 


第一に、経済的不平等の存在は、それだけを取り出して観察すれば残念なことかもしれないが、各人の自由な行動の結果である限りは不正でない。

 


自由市場はすべての当事者の暮らし向きをよくするとはいえ、万人が等しい利益を受けることは保証しない。

 


いやむしろ、それぞれ異なった人々が自由に行動する限り、彼らの経済的な境遇に差が生ずるのは当然のことである。

 


ミーゼスが言うように、「所得と富の不平等は、市場経済の本質的特徴である。それをなくすと、市場経済は完全に破壊される」。

 


所得の再分配を主張する人の多くは、資源は市場によって効率的に配分 (allocate) されるべきだが、所得は政府によって公平に分配 (distribute) されるべきだと考えている(それとは少し違うが、裁判や私法の目的は資源を効率的に配分することであり、所得の分配は政治的決定の任務であると主張する人もいる)。

 


そこでいう効率性と公平という概念の具体的内容について人々の見解が一致しているわけではないが、ともかく資源配分と所得分配は別々の機能で、効率性と公平は個々独立した価値だと考えられている。

 


しかし資源配分と所得分配はそんなに簡単に切り離せるものではない。同じ財が資源でもあれば、同様に所得でもある。効率性と公平は、その内容が何であれ、たやすく両立しないのである。

 


では、どちらを優先させるべきか? 前者とリバタリアンの経済学者の多くは主張する。公平という概念自体が極めて多義的で濫用されやすいだけでなく、そもそも公平は市場経済の目的とみなすべきではない、と考える。

 


政府が万人に最小限の生活を保証することは、リバタリアニズムからも擁護する余地はある。

 


しかし、そこで問題になるのは、相対的な貧富の差の是正ではなく、絶対的貧困の救済である。単なる相対的貧困は政府による介入を正当化しない。

 


通俗的には、「貧富の格差」が大きいことは当然悪のように考え がちである。そして経済学者は所得分配の不平等さを測定する尺度として、ジニ係数をはじめさまざまな方法を考え出してきた。

 


しかし、他の人々との比較による相対的な関係である(不) 平等を重視することは、各個人が自分の本当に大切にしているものをどのくらい実現できるかといはるかに重要な問題から関心をそらせて、経済的問題をゼロ・サム・ゲーム的に見せてしまう傾向がある。

 


かりにある社会の中で貧富の差が拡大するとしても、それが貧しい人々が一層貧しくなることによるものではなく、彼らが豊かになる程度が相対的に豊かな人々が一層豊かになる程度よりも小さいことによるならば、その変化は改善である。

 


市場経済は分業を発達させるが、ミーゼスも指摘するように「分業は人間の生来的不平等を強める」。

 


人は自分の得意な才能を伸ばして専門家になっていく傾向があるから、自分一人でさまざまな仕事をこなさなければならないときよりも、個人差が拡大していく。

 


だから市場経済は、身分や特権を廃止する一方で、おそらくそれ以前の社会よりも人々の間の貧富の差を拡大するだろう。

 


しかし国際分業に関するリカードの「比較優位」あるいは「比較生産費」の理論が個人間でもあてはまる。相対的に能力の劣る人も、市場経済において相互の交換から利益を受けることができる。

 


誰もが市場経済における方が暮らし向きがよいだろうから、その結果貧富の格差が拡大しても、そのことは何ら問題ではない。

 


経済的不平等は社会内部の連帯感を損なう、と言われるかもしれない。だが、リバタリアンはそもそも相互に人間性を認め合うという、礼儀正しい尊重以上の濃い連帯感が社会全体の中に存在しなければならないとは考えない。

 


濃い連帯感は共同体の内部で求めるべきである。

 


経済的に豊かな人と貧しい人の間ではライフスタイルが異なるために連帯感が生じにくいかもしれないが、そのことは、異なった宗教の信者や異なった地方の住民の間で連帯感が存在しにくいのと同様、問題ではない。

 


次に政治的権力の不平等についてだが、これはリバタリアニズムの立場からも確かに問題だ。

 


しかしそれは、経済的不平等を禁止する理由にはならない。問題なのは、正当な授権によって得られたのではない政治的不平等や、平等な自由を侵害するような政治的権力行使である。

 


たとえば、特殊利益を代表する団体や地域が票の力や族議員の影響力を利用して、保護や特権をかちとるのは不当である。特定の信念を持った人々がデモによって、それ以外の人々以上に政治に影響力を持つのも不当である。

 


多数派が少数派を犠牲にして利益を得ること(たとえば少数の金持ちからの累進課税によって所得を多数の中間層に再分配すること)も不当である。

 


現代の日本を含む、利益配分型の政治は、たとえどんなに民主的であっても、原理上不正である。

 


なぜなら絶対的貧困を救済するための福祉給付や十分に理由のある公共財(ここでは国防や法秩序も含む)の供給を除くと、政府には果たすべき役割など残っていないからである。

 


政治権力の不平等の防止策は、多様な利益集団の政治参加の平等化ではなく、政治権力自体の最小化であって、それがなされれば、経済的な力が政治に影響するということもおのずからなくなる。

 


それはちょうど、政界財界の癒着をなくすために

は、財界の内部調整によって利権を公平に分配するのではなしに、利権そのものをなくすべきであるのと同様である。

 


このように考えると、政治とは多様な利益集団の取引と妥協の過程だと考える 「政治的多元主義」や、個々人の利害は職能団体とその代表者によって代表され調整されると考える「コーポラティズム」と呼ばれる見解は、政治の実態を記述するものとしては正しいかもしれないが、規範的な見解としては斥けられる。

 


社会の中に多様な利益が存在することは事実だが、その利益の追求は強制力を伴う政治の場ではなしに、民間の領域でなされるべきである。

 


人からお金をもらいたかったら、課税によって否応なしに取り立てるべきではなく、寄付か交換によって、相手の納得ずくでもらうべきなのであ

するとリバタリアニズムが認める政治の役割は結局何なのか?

 


それは、市場では十分に供給されない公共財が何であり、政府がどれだけ供給すべきかを決めることと、福祉給付の程度を決めることくらいに限られるだろう。むろんこれらの政治的決定に際しても、自己利益的考慮は入り込んでくるだろうが、右の原則が建て前としてでも認められれば、政治が利益集団に利益を分配できる程度は現在よりもはるかに制限されるだろう

 


感想

 


筆者の言うように、経済的不平等よりも政治的支配の方が問題かも知れないと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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