こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
リバタリアニズムは先進国のための思想か?
リバタリアニズムは、西側の先進国で豊かな生活をしている人々だけのための思想であって、それ以外の貧しい生活をしている何十億の人々には何の関係もない、と批判する人がいる。
リバタリアンは自己所有権や自由市場経済が特定の地域だけでなく、人間社会に普遍的に妥当する制度だと考える。
現代の先進国は、これらの制度を他の国々よりも相対的に尊重しているために――とはいえ、リバタリアンとはいえ、リバタリアンの目から見るとまだまだ不十分だが 豊かな生活が可能になっているのである。
だからリバタリアニズムは途上国に無関係どころではない。それは途上国の政府に対して、個人の精神的・政治的・経済的自由への制約を廃止し、誤った介入主義的経済政策を捨てて自由市場経済を本気で受け入れるよう説き、その国民に対しては、政府の圧制に対して自らの権利を主張・行使するように勧める。
途上国の人々の生活が豊かになるために (リバタリアンは「国が豊かになる」というよりも、この言い方を好むだろう)、それ以上の方法があるわけではない。
途上国が資源にも労働力にも恵まれているのにその国民が貧しい生活を強いられるのは、多くの場合その政府に問題がある。
中でも最悪の道は、先進国を敵視してそれに張り合って権威主義的政治にしがみついたり、市場経済が富める者を一層豊かにして貧しい者を一層貧しくするという俗説に惑わされて経済統制を強行することである。
またリバタリアンは途上国の政府が住民の土地所有権を無視して国土を「開発」することにも反対する。
リバタリアニズムは先進国だけでなく、途上国にも向けられた主張である。
また、「新保守主義」という言葉は、学問的というよりもジャーナリスティックな用語なのでそれが何を意味しているかは曖昧だが、ともかくリバタリアニズムは保守主義とは別物である。
それは、市場経済や自己責任への信念を保守主義の良質の部分と共有しているが、現状の維持にも伝統の擁護にもとどまらない、さまざまなラディカルで自由主義的な主張を含んでいる。
特にリバタリアニズムが「新保守主義」と異なるのは、それがナショナリズムと対立するという点である。
自分の既得権益を擁護するために、あるいは時代の流れに乗り遅れないためにリバタリアニズムを唱えた人もいるだろうが、そのような不純な動機から議論をする論者がいるということは、リバタリアニズムに限らず、いかなる社会思想についても言えることであるリバタリアニズムを批判するためには、そのような御都合主義的なリバタリアンがいるということを指摘するだけでは足りない。
リバタリアニズムの主張それ自体を批判しなけれ
ばならない。
さらにリバタリアニズムが資本主義や市場経済の擁護論であるということは、リバタリアンにとっては何らやましいことではない。
なぜなら経済だけで人間社会が成り立つわけではないが、人々の共存共栄を実現するための経済制度として、自由市場経済に勝る制度はないからである。
感想
途上国が資源にも労働力にも恵まれているのにその国民が貧しい生活を強いられるのは、多くの場合その政府に問題がある、という。
たしかにそういう見方はあると思いました。
下記の本を參考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進