とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

公共事業の是非

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


バスティアの教訓

 


リバタリアンケインズ公共投資政策や財政赤字に反対することは、周知の通りである。

 


リバタリアンはその際、オーストリア学派の先駆者と言えるフランス19世紀前半の自由主義経済学者フレドリク・バスティアに、しばしば言及する。

 


彼はケインズよりも1世紀近く前にケインズ政策を論駁していたからである。

 


日本ではバスティアの業績はもちろん、名前さえほとんど知られていないようなので、ここで彼の代表作であるパンフレット「見えるものと見えないもの」(1850年)を紹介しておきたい。

 


バスティアは、悪い経済学者とよい経済学者を分かつものは、前者が行為や制度の結果のうちすぐに発生するもの、つまり「見えるもの」しか考慮しないのに対して、後者がその後発生するもの、つまり「見えないもの」も考慮するという点にあると主張する。

 


ジャック・ボノム氏のわんぱく息子がガラス窓を割ったとする。

 


人々は激怒しているボノム氏を慰めて言う。

 


「甲の損は乙の得だ。そんな事故があるから産業は成り立つのだ。誰もが生計を立てていかなければならない。誰も窓を割らなかったら、 ガラス屋はどうなってしまうだろうか?」

 


この慰めの中に間違った経済理論全体が含まれている。その窓を直すためにガラス屋に6フラン支払わなければならないとしてみよう。

 


確かにこの支出はその分だけガラス産業を振興させる。これは見えることである。

 


しかしもしガラス窓が割られなかったら、ボノム氏はその6フランを何か別の用途に使っただろう。

 


たとえばくたびれた靴を買い替えたかもしれない。

 


その分だけ製靴産業が振興したはずである。

 


これが見えないことである。

 


両者を考え合わせると、ガラス窓が割られても割られなくても産業全体の振興という点では相違がない。

 


違うのは、ガラス窓が割られた場合にはボノム氏が6フラン損するということである。

 


ボノム氏を含む社会全体から見れば、この損失は全く不必要なものだった。

 


ガラス窓の破損は結局社会的損失だったのであり、一見すると賢明に見えた慰めは間違っていた。

 


バスティアはこの教訓を、人員解雇、課税、公共事業、仲買人、保護貿易、機械化、植民地(アルジェリア) 経営といった問題に一つ一つあてはめて、自由経済の優位を主張した。

 


介入主義者はその直接の効果である「見えること」しか見ていないというのである。

 


現代のリバタリアン経済学者はバスティアの教訓を公共事業にあてはめて次のように主張する。

 


政府が公共事業に投資したり補助金を出すためには、税金が必要である。

 


納税者はその税金を取られた分だけ支出が減る。公共投資とは、その課税がなかったら納税者が

自分のニーズに応じて行う消費や投資の代わりに、もうからない事業に政府が資金をつぎ込むことである。

 


その結果富の総額は、公共投資がなかった場合よりも減少する。しかし多くの人々は公共事業から得られる見える利益に目を奪われて、それから得られたはずの、もっと大きな見えない利益を想像できない。

 


あるいは公共事業から利益を受ける特定の集団がその事業の実施のために圧力をかける。

 


さらに公共選択学派は、代議制民主主義におい政治的に利益を得ようとするレントシーキング活動が、社会全体の富を著しく減少させることを示した。

 


公共事業がレント・シーキングの温床であることは言うまでもない。

 


感想

 


政府が公共事業に投資したり補助金を出すためには、税金が必要である。

 


納税者はその税金を取られた分だけ支出が減る。公共投資とは、その課税がなかったら納税者が

自分のニーズに応じて行う消費や投資の代わりに、もうからない事業に政府が資金をつぎ込むことである。

 


という箇所が特におもしろいと思いました。

 


たしかに儲からなくても、大事な事業はあると思います。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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