とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

公民的共和主義とは

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


公民的共和主義

 


リバタリアニズムの消極的な政治観に対する、より根本的な批判もある。

 


最近英語圏の政治理論で注目されている 「公民的共和主義(シヴィック・リパブリカニズム)」や、それとよく似た「参加民主主義」などと呼ばれる見解によると、 政治は人々の幸福や利益実現のための単なる手段ではないし、まして必要悪でもない。

 


むしろ政治への積極的な参加こそが、市民のよき生にとって欠かせない構成要素である。

 


経済の領域では私的利益を孤独に追求しているにすぎない個人も、政治の領域で公共的決定に参加して、公共善について同胞市民と共に熟慮し討論し競い合うことを通じて、連帯感を持つようになる。

 


政治への参加が人格を陶治し、他者への共感と思いやりを持った豊かな人間性を育てるとなる。

 


古代ギリシア直接民主制を理想化するこの立場では、民主制は人々の意見を平等に反映させるとか、あるいは専制政治を阻止しやすいといった理由よりも、誰もが政治に積極的・直接的に参加すべきだという理由によって正当化される。

 


民主主義国家は民主主義へのコトメントによって結ばれた政治的共同体であこの説は、一見して現実離れしているように思われる。

 


第一に、大部分の人々は自分自身の利害についてはある程度合理的な判断ができるが、天下国家や地球全体にかかわる問題については、ごく限られた知識しか持っていない。

 


また、かりに人々がこれらの問題について十分理解しているとしても、各人が求めるのは公共的な利益よりも自己利益かもしれない。そもそも政治参加が人格を陶治するというのも、奇異な主張である。

 


プロの政治家と市井の私人とを比べると、前者の方に立派な人格者が多いだろうか?

 


政治家の公約は商人の契約ほど当てになるだろうか?

 


おそらく公民的共和主義者は、これらの疑念を全く否定はしないだろうが、それは現在の形骸化している民主主義に特有の問題だと答えるだろう。

 


彼らによれば参加民主主義が実現されれば、利己的な個人だった人々も公民的自治を通じて社会全体の利益に配慮する真の市民に鍛え上げられていく。

 


そのような政治文化の中での政治の担い手は公共性に目ざめた市民なのだから、特殊利益の代弁者にすぎないような職業的政治家はおのずから陶汰される、と彼らは考えているのだろう。

 


このような想定は、私には人間の可塑性を過大評価しているように思われる。

 


しかしそのことをおいても、公民的共和主義は、リバタリアンに限らず自由主義的見解からはとうてい認めることができない。

 


それは何よりもまず、人間の多様性を無視している。 人々の中には公共的決定への参加を生きがいとする人もいるように、私生活を楽しもうとする人もいる。

 


公民的共和主義者は後者の人々を、教育されるべき、意識の低い人々とみなすようだ。しかしそのような人間観を持つのは自由だが、それは公的に強制されるべきものではない。

 


その強制は個人的自由に対する全面的な侵害である。それはちょうど音楽好きの人々―それは現代の日本では政治好きの人々よりも多いだろうが、 音楽のない生活は貧しい生活だという理由で、政府は音楽の振興を国家的目的として、すべての国民に音楽活動への積極的な参加を呼びかけなければならない、と主張するようなものである。

 


これに対して、リバタリアンの提唱する社会は、決して公民的共和主義者を非政治的人間と差別するものではない。

 


第一、そこでも先述のような最小限の政治的決定は残っている。

 


またその社会では営利的なものにせよ非営利的なものにせよ、自発的な団体がたくさん存在するが、その内部的な意思決定も一種の政治である。

 


人は自分の属している会社や団体の中で政治活動に励むことができる。

 


そして一層重要なことは、このような団体内部の政治は特定された目的追求のための手段にすぎず、全人格的な活動でないと不満を持つ人は、自由に自分の見解に沿った共同体を結成し、その内部で自分たちのエネルギーと時間と財産とを自治活動に傾注することができるのである。

 


参加的民主主義はまとまりのよい地域社会で実現しやすいから、リバタリアンの社会の中では、公民的共和主義者は「直接民主主義者同盟」とか「話し合い自治の会」とか「グループへみんなが主権者」とかいったコミューンを各地で結成して共同生活をすることができる。

 


そのような濃密な共同体の中で、メンバーが部外者を巻き込むことなしに水入らずで民主的な政治をしている限り――いや、民主的でなくても、メンバーが同意している限りそれを禁止したり制約したりする理由はない。

 


感想

 


プロの政治家と市井の私人とを比べると、前者の方に立派な人格者が多いだろうか?

 


政治家の公約は商人の契約ほど当てになるだろうか?

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 

 

 

ニュースを見ている限り、立派な人が多い気がしないし、公約もあってないようなものだと思うからです。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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