とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

親に子の扶養義務はない

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


親に子の扶養義務はない

 


「親はどの程度まで子どもの面倒を見る義務があるのか」というあらたな疑問が生じる。

 


リバタリアンの見解によれば、親は原則として、子どもに対する積極的な扶養義務を負わない。

 


世間一般が信じているような、「親は子どもを幸福に育てなければならない」という信念、その根拠が親と子の「契約」であれ、子どもを産むという自発的な「決断」であれは、論理的に間違っている。それを実証してみよう。

 


① すべての子どもは、出自にかかわらず等しい権利を持つ。

 


② レイプによって生まれた子どもも、ほかの子どもたちと同様に、母親に対する等しい権利を持つ(レイプした男はいなくなったものとする)。

 


レイプに対してどのような考えを持っていようとも、「レイプによって生まれた子どもになんの罪もない」という主張はすべての人が同意するはずだ。

 


③ レイプされた女性は、自らの意思で妊娠したのではない。

 


④したがって「自ら望んで子どもを産んだのだから親には子どもを養育する義務がある」との暗黙の了解は、レイプされた母親にはあてはまらない。

 


彼女は子どもに対していかなる扶養義務も負っていない。

 


彼女にはその意思がなかったからだ。

 


⑤"原罪"のような宗教的なものは別として、生まれてきた赤ん坊に罪はなく、したがって彼らは親に対して等しい権利を持つ。

 


だがその一方で、親の扶養義務が妊娠の意思を根拠とするのであれば、レイプされて子どもを産んだ母親にはそのような義務はない。

 


ここに、明らかな論理的矛盾が生じる。

 


⑥この矛盾を解消する方法はただひとつしかない。すなわち、自ら望んで産んだ子であろうと、レイプによって生まれた子であろうと、すべての親には子どもに対する扶養義務はないのである。

 


「親は子どもを養う義務がある」という広く流布した信念は、子どもを望む親の意思を根拠にし

ている。

 


この論理が完全に破綻しているならばそれ以外の解釈はわたしにはちょっと思いつかないが、親の扶養義務そのものが間違っているのである。

 


「扶養義務がない」ということは、他人の子どもの世話をする義務がないのと同様に、あるいは

血縁においても地縁においても自分とはまったく無関係な赤の他人の面倒を見る義務がないのと

同様に、自分の子どもに食べさせ、服を着せ、寝場所を与える義務がないということだ。

 


しかしこれは、親が自分の子どもを殺してもいいということではない。

 


他人の子どもを殺す権利がないのと同様に、親には「自分の」 子ども、彼らが生を与えた子どもを殺す権利もない。

 


「親の役割」というものを考えるならば、それはむしろ養育係のようなものである。もしも親が、自発的に引き受けたこの役割を放棄したいと思ったり、 そもそも最初からその気がなかったならば自由にやめてしまってかまわない。

 


自分の赤ん坊を養子に出したり、あるいは伝統的な方法として、教会や孤児院の前に置き去ることもできる。

 


しかしその一方で、子どもに食べ物を与えず放置したり、手放すのを拒んで餓死を待つようなことは許されない。

 


それは殺人にも等しい犯罪として、厳しく罰せられるべきだ。肉体的に傷つけたかどうかに関係なく、子どもを飢えるままに放置した親は、ほかの人々(たとえば養い親)なら与えられたかもしれない養育の機会や親子関係を一方的に奪ったのである。

 


感想

 


「親に子の扶養義務はない」というのは、衝撃的見方だと思いました。

 


また、レイプでできた子ども例もそうですが、現実的には受け入れにくい意見だと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

flier(フライヤー)