とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

国家が処罰権限を持つ理由

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


国家の処罰の権限

 


刑罰を社会全体の正当防衛の拡張として説明するとしても、「なぜ国家が、そして国家だけが、処罰の権限を持てるのか?」という問題は残る。

 


ジョン・ロックは『統治論』の中で、国家の処罰権は、社会契約による国家設立以前の自然状態の人々がそれぞれ自然権として持っていた処罰の権限に由来する、と主張した。

 


自然状態では誰もが早い者勝ちで処罰権を行使できたが、それでは社会的な紛争や不安が大きいので、国家に刑罰権を委ねた、というのである。

 


ロック自身、自然状態では誰にでも犯罪者を処罰する権利があるという自分の主張が「ある人々には非常に奇妙なドクトリンと思われるだろう」と認めている。国家による権力の独占に慣れきった現代人にとっては、なおさらだろう。

 


しかし被害者への損害賠償だけでなく、何らかの刑罰が社会の自己防衛のために正当化できるとすれば、社会全体を代表する人物がいない以上、社会を構成する人が誰でも刑罰を科することができるという結論は自然なものである。

 


そのような状態では刑罰権の行使が行きすぎたり不公正だったりする恐れが強いから、何らかの国家の正当性を認める以上は、処罰の権限も国家に委ねる方が便宜的だ、というだけのことである。

 


刑罰を科すのは国家だと自明の理のように考えられがちだが、私人(被害者に限らない)による処罰という観念は、十分理解できる。

 


このように考えると、「国家による不正な処罰に対しては、誰もが抵抗する権利を持っている」というだけでなく、「国家が権利侵害者の処罰を不当に怠る場合には、誰もが犯人を処罰する権利がある」という結論も出てくるだろう。

 


「悪法にも従うべきだ」と考えず、悪法への抵抗の道徳性を信ずる人ならば、私的処罰が正当である可能性も認めるべきである。

 


もっともその処罰には、公衆を納得させるだけの理由づけが要求されるが、法秩序も含めて、リバタリアンな秩序は、国家によって上から与えられ守られるというよりも、自由な個々人の行動によって下から実現されるものだ。

 


そのことは正当防衛や自力救済だけでなく、処罰についてもあてはまる。犯罪予防の方法は、国家による処罰を否定しないとしても、それ以上に被害者による権利の回復の請求と社会内部の圧力(その中には加害者の人身や自由や財産への侵害は含まれない) とに期待すべきである。

 


そしてそのためには、権利侵害の前科の公表は禁止されてはならない。こうした情報を国家(本人)に独占させるということは、「法秩序の維持はお上の仕事であって、私人が首を突っ込むべき事柄ではない」という発想からきているのだろう。

 


感想

 


自然状態では誰もが早い者勝ちで処罰権を行使できたが、それでは社会的な紛争や不安が大きいので、国家に刑罰権を委ねた、というのである。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


特に「早い者勝ちで」が印象に残りました。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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