とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

人はいつ親の保護を受けなくなるか?

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


人はいつ親の保護を受けなくなるか?

 


一体何歳まで子供は親の支配監督の権限の下にあるのか?

 


人間は十人十色である。あらゆる子供にあてはま

る自然な成人の時期があるわけではない。

 


そこでマレー・ロスバードは『自由の倫理』の

中でこう主張した。

 


両親の子供に対する信託的支配権はいつ終わるというべきか?

 


確かに、いかなる特定の年齢も完全に恣意的でしかありえない。

 


この厄介な問題を解く鍵は、両親がその家に対して持つ財産権にあるというのは、子供が完全な自己所有権を持つのは、彼が自然上その権利を持っていることを証明するとき―要するに、彼が家を去る、あるいは「逃げ出す」とき―――である。

 


年齢にかかわらず、われわれはあらゆる子供に、逃げ出す権利、自分を進んで養子にしてくれる新しい養親を見つける権利、自活して生きていこうとする権利を完全な権利として認めなければならない。

 


両親は逃げ出した子供に帰ってくるように説得を試みてもよいが、彼らが子供に帰ってくるように強制力を用いるのは、全く許されない奴隷化であり、子供の自己所有権の侵害である。

 


絶対的な逃走の権利は、年齢にかかわらず、子供の自己所有権のこの上ない表現である。

 


この説は子供と親の間に深刻な対立がありうるという事実を無視していない点で、一部のリバタリアンの一面的な家族尊重論よりもすぐれている。

 


子供が十分には理性を持っていないということを考えると、子供に「絶対的な逃走の権利」を認めるのには疑問が残るかもしれないが、子供があえて逃走を試みたという事実自体が、親の養育の権限が疑わしいということを示すものだろう。

 


そうすると、親のところから逃げ出した子供には、成人としての権利を認めてよいかもしれない。

 


いったん脱走した子供も、反省して家に戻って再び親の養育を受ける機会は残されていると想定すれば、この説には一層賛成しやすい。

 


子供は親の家を去らなければ自己所有者と認められないという主張には問題がある。

 


これは成人した子供は親と別に暮らすのが当然だという核家族的家族観を当然の前提にしていて、親と同居している人々の自己所有権を認めていない。

 


成長した人物であっても、十分な理由があって親との同居を選びうる。子供は老いた親の面倒を自分で見たいのかもしれない。

 


子育てを自分の親に手伝ってもらいたいのかもしれない。

 


あるいは大家族の生活が好きなのかもしれない。

 


これらの人々は、人間として未熟なわけでは

ない。

 


ところがロスバードの見解では、親と同居している限りは、「パラサイト・シングル」だけでなく、自分で稼いで親に生活費を入れている子供まで、十分な権利主体として認められないということになってしまう。

 


従って、親と同居している子供については個々の事情を考慮せず、画一的に成人の時期を決めてしまうべきだろう。

 


それは何歳がふさわしいかというと、現在の日本の20歳では少し高すぎるという以上のことは言いにくい。

 


感想

 

「絶対的な逃走の権利」という言葉がおもしろいと思いました。

 


言い過ぎかもしれませんが、こういう側面もあると思います。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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