こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
犯罪予防効果の無視
刑罰廃止論のさらなる重大な難点は、犯罪予防効果の無視である。
カントやヘーゲルのように、純粋な応報刑論を公然と主張する人は、今日ではほとんど存在しない。
刑罰の目的は、犯罪を犯した人の処罰によって、世人一般に (一般予防)、また受刑者本人に (特別予防)、犯罪が引き合わないということを知らせて、犯罪を未然に予防するという点に求めら
れるのが普通である。
ところが、刑罰廃止論は刑罰のこの抑止効果をなくしてしまう。
損害賠償にも犯罪抑止効果はあるが、それは目的ではなくて副次的な効果にすぎない。
刑罰廃止論者はこの批判に応えて、自分が提唱する損害賠償システムでは、犯罪それ自体による被害だけでなく、証拠集めや裁判費用などの二次的なコストも加害者が支払う責任を負うから、権利侵害のコストは大変高くつく、と言うだろう。
また刑罰の抑止効果は過大評価されており、刑罰制度がもたらすさまざまな弊害やコストを考えると、刑罰を正当化するものではない、とも主張するかもしれない。
しかし、この議論は刑罰制度が現実にどのように機能しているかに依存する、経験的な問題である。
そして他の社会はさておき、現代の日本では、多くの人々が刑罰の恐れのために不法行為を思いとどまることがある、というのは広く信じられていることである。
刑罰制度の存在が、社会にある程度の安心感を与えていることを否定するのは難しい。
従って、最小限度の国家の正当性を認めるリバタリアンにとって、何らかの刑罰が犯罪予防に役立つならば、刑罰は正当だということになる。
しかし言うまでもないことだが、その刑罰は第一に、本当に罰するだけの必要がある権利侵害に対するものでなければならない。
第二に、国家が処罰できる理由はあくまでも不
法行為の抑止にあるのだから、その目的を超えた犯人の行動の制約は認められるべきではないということになる。
具体的には、受刑者を道徳的に教育して更生させることは刑罰の目的ではない。
そのような機能は社会の内部家族や友人やボランティア に求めるべきである。
それでも、犯罪の重さに比べてどの程度重い刑罰までが許されるのかはリバタリアニズムにおいても難問である。
そして第三に、権利侵害の間接的な被害者、あるいは蓋然的な被害者である社会一般の利益の保護よりも、直接の被害者の権利の救済を優先させるべきである。
ましてや加害者の更生や教育といった目的を、それに優先させるべきではない。
刑罰廃止論者が正当に指摘するように、事実上現在の制度では、民事的な損害賠償よりも刑事的処遇の方が優先されていて、被害者が加害者から損害賠償を取りたてることがそのために困難になってしまっている。
感想
やはり、刑罰の犯罪予防効果は無視できないとぼくも思います。
下記の本を參考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進