こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
無主の財を開拓する人の労
価値の創造による所有権取得のルールは、資源の隠れた価値を見出して現実化する人に所有権を与えることによって、資源とそれに関する情報の発見と利用を促進することにもなる。
このメリットは、労働所有論が経済学的な観点からも正当化できるということを示す。
経済学的な所有論は、私的所有権の方が公有や共有の状態よりも、また財産の自由な譲渡を認める方が認めないよりも、(通常) 効率的だということを示すが、そもそも誰が特定の財を所有すべきかについては何も語らない、としばしば言われる。
確かに多くの「法の経済分析」家は後者の問題についてほとんど語らなかったが、実は経済学的考慮は労働投下による無主物先占という所有権取得のルールを支持するのである。
実際、労働の投下という概念は、農作業のような典型的な労苦だけに限定せず、もっとゆるやかに解されるべきだろう。
無主の財を誰よりも先に専有する人は、労力だけでなく、時間という有限の資源も費やす。
またまだ誰も存在に気がついていない財を発見すること自体が、その財を実践的な意味で(物理的な意味ではなくても)作り出すことになるからだ。
リバタリアンが通常狭義の自己所有権から広義の自己所有権を導き出す議論は、先述した通り、ロック的価値創造論による。
しかし、それだけではまだ不十分だろう。なぜなら、人が他者の権利を侵害することなしに価値を創造したからといって、必ずしもその価値への財産権を持つとは限らないからである。
たとえば私が、頼まれたわけではないが所有者
の承諾は得て、隣接する集合住宅の庭を手入れして美しい草花を育て、その所有者にとっての価値を高めた 庭の美しさにひかれて空室を借りる人が来たとする。
その場合、私はその庭の所有権はもちろん、所有者が庭の手入れから得た経済的利益さえも得る権利がない、と考えられるだろう。
所有者が自発的にお礼をするのは別として、私は見違えるように美しくなった隣の庭を見るだけで満足すべきだ、と考えられるだろう。
これは私の価値創造の活動が他人の支配する領域で行われたからである。
これに対して、価値を創造する活動が誰のものでもない領域で行われたならば、それは私の自由な領域の拡張であるとみなすことが自然である。
だから身体所有権から財産への所有権を導き出すためには、価値の創造だけでなく、それが他者の身体や財産の領域の中にないということも必要だろう。
感想
たとえば私が、頼まれたわけではないが所有者
の承諾は得て、隣接する集合住宅の庭を手入れして美しい草花を育て、その所有者にとっての価値を高めた 庭の美しさにひかれて空室を借りる人が来たとする。
その場合、私はその庭の所有権はもちろん、所有者が庭の手入れから得た経済的利益さえも得る権利がない、と考えられるだろう。
という箇所の説明が分かりやすいと思いました。
下記の本を參考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進