こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
「自由」は「自分の身体」に帰着する
自己所有権は、犯罪に対する刑罰は例外として認めるが、人身の自由に対する自らの同意のない強制を許さない。
この思想は、日本国憲法第18条の 「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。
又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」という規定にも表れている。
憲法18条は狭義の自己所有権テーゼの極めて控えめな表現なのである。
この規定は、自由主義国と言われる国々の一部で、平時でさえも今なお採用されている徴兵制を
排除している。
そうなると、リバタリアニズムにふさわしい国防の形態は、志願兵制か傭兵によるものだろう。
最近、若者に社会的連帯感を植えつけるために、一年間程度の勤労奉仕を義務づけようという提案をする人々がいるが、そのような制度も憲法18条は禁止している。
義務づけられた勤労奉仕は強制労働にほかならないからだ。
また身体所有権は、苦役を伴わない拘束や監禁とも対立する。
有罪が確定していない被告人・被疑者の逮捕・抑留・拘禁、民事・刑事の裁判の証人としての出頭、精神障害者の同意に基づかない入院、義務的学校教育などは、日本の法律上認められている身体所有権への制約の一部である。
もし陪審制が採用されれば、陪審の義務もその中に含まれになる。自己所有権テーゼは必ずしもこれらの制約をすべて不正だとはみなさないかもし
れない。
基本的権利の保護のためには、実際上やむをえないものがあるかもしれないからだ。しかしそれは少なくとも、身体所有権を制約するための「極めて強い理由」を要求する。
そして先述の制約のすべてにその「理由」があるかどうかは、はなはだ疑問である。
憲法18条は犯罪の処罰のための苦役は禁じていなかった。 リバタリアンも犯罪者の懲役刑には反対しない人が多い。
しかしなぜ、犯罪者に対してならば労働の強制が許されるのか? それに対する自然な答えの一つは、犯罪者は他人の権利を侵害したのだから、自
分の自己所有権が制約されてもやむをえない、というものだろう。
この答えは、処罰の根拠を犯人と被害者との間の公平な関係に求めるものである。
つまり、処罰の根拠を国家の特別な権威に求めないということになる。これはリバタリアンにとって受け入れやすそうだ。
しかしこの論理に則れば、たとえ犯罪ではなくても他人の権利を侵害した人の自己所有権は、場合によっては制約して構わないということになるだろう。
たとえば、損害賠償を支払わない不法行為者を拘束して、その労働の代価を被害者への損害賠償に当てさせることも可能になるのではないか?
感想
損害賠償を支払わない不法行為者を拘束して、その労働の代価を被害者への損害賠償に当てさせることも可能になるのではないか、という箇所がおもしろいと思いました。
また、たとえ犯罪ではなくても他人の権利を侵害した人の自己所有権は、場合によっては制約して構わないという考え方もありうると思いました。
下記の本を参考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進