こんにちは。冨樫純です。
独学で、憲法を学んでいます
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
表現の自由は偉い
表現の自由の一般論的な説明をしておくと、表現の自由は日本国憲法の保障する人権のなかでもとりわけ重要度の高いものといわれています。
これを「表現の自由の優越的地位」 などといいます。
その理由としてふつういわれるのは、次の3つの点です。
①人間はコミュニケーションしたいという本性 (人格的欲求)をもっているから、表現の自由をむやみに規制すると、この本性を否定することになってしまいます。 携帯メールや長電話も人間の人格的欲求なのだから、親は怒るかわりに電話会社に値下げを要求するのがスジだというわけです。
② 多様な意見が自由に発表され、人々がそれらを自由に批判したり反論したりする場(「思想の自由市場」という呼び方をします)が保障されてはじめて、 人間社会が進歩し真理に近づいていくことができるのです。
表現の自由を制約すると、正しい意見がヤミからヤミに葬られるかもしれないし、たとえ間違った意見であっても、みんなが批判して淘汰 (なくしていくこと)すればいいのだから、いずれにしても表現の自由を制約することは許されません。
「真理」なんていうと(「オウム真理教」なんていうのもありましたね)マユつばですが、とりあえずみんなでわいわい議論して、他人を納得させたものがその時点では「正しい」というしかない、ということなのです。もちろん社会の多数派は、自分たちでどんどん新しいアイデアを発表できるほど賢くはないでしょうが、古い常識にとらわれずに、柔軟に新しいアイデアに耳を貸すことはできるのです。
自分では偉いつもりのお役人や「学識経験者」たちが、密室の中で何が正しくて何が間違いかをふり分けるのに比べると、大勢で考えたほうがよっぽどマシだというわけです。
③民主主義と表現の自由は不可分一体ですから、憲法が民主主義という政治体制を掲げるからには、表現の自由を保障するのは当然です。
民主主義が本物の民主主義といえるためには、とくに少数意見の発表の自由が必要不可欠です。
民主主義というのは、たえず少数意見にも多数意見となるチャンスを確保している政治体制のことです。
多数派が今たまたま多数派だからというだけで、これから先も少数派に逆転されないように、少数意見を発表しにくくすることができるのでは、民主主義の自殺行為です。
だから表現の自由は、法律という多数派の意思によって自分に都合よく制約されてはならないということになります。
感想
これを読むと表現の自由が優先されるのに納得がいくと思います。
下記の本を参考にしました
『いちばんやさしい 憲法入門』
初宿 正典 他2名
有斐閣アルマ