こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
市場は「戦いの場」ではなく「協力の場」
最後に、一番重要なことを述べたい。人々の間で狭い自己利益を超えた連帯が可能になるのも、大部分は市場のおかげである。
ロスバードが大著『人間、経済及び国家』の中で
言うように、社会の起源を説明するに当たって、個人間の何か神秘的な交流あるいは「親近感」を呼び起こす必要はない。
実のところ、友情と交流の感情は、(契約で保証された)協力の原因というよりも、むしろ結果である。
一人の人間の利益が他の人間の利益である相互の有利な交換に適した自発的社会協力の世界では、社会的共感と人間的友情の発展にとって大きな範囲が与えられることは明らかである。
市場社会はしばしば「弱肉強食」の社会としてイメージされるが、これは間違いである。
それは協力と分業によって相互に利益を与え合う共存共栄の場である。そこでは他の人に比べて相対的に小さな利益しか得られない人々もいるだろうが、その人々も強者の犠牲になっているわけではなく、やはり市場から恩恵を受けている。
自由市場における「競争」は、第三者に一層大きな利益を与えよう(そしてその見返りに自分も利益を得よう)とする人々の競い合いのことである。
それは戦争やゲームにおける戦いとは全く性質が異なる。戦争は、社会全体にとって無益で破壊的なマイナス・サム・ゲームであり、スポーツ競技やボードゲームなど通常の意味でのゲームは、誰かが勝てば他のプレーヤーがその分だけ負けるゼロ・サム・ゲームである。
このような状況、特に前者の戦争では、「弱肉強食」という表現があてはまるだろう。
しかし市場での競争における勝者は取引相手との相互に有利な取引から利益を得るのであって、競争相手から利益を奪うのではない。
市場取引はよく無反省に言われるような「等価交換」ではなくて、当事者双方にとって有利なプラス・サム・ゲームである。
市場での競争と競技や戦争における敵対とを混同する用語法は一般的だが、それは市場の生産的・協同的性質を見失わせる有害な発想である。
『ヒューマン・アクション』におけるミーゼスの次の文章は、この事情を見事に表現している。
市場経済の枠組みの中では、競争には、この言葉が相容れない利害の敵対的衝突を示す際に用いられる意味での、敵対という含みはない。
競争者は、相互協力のシステムの中で、業績の優秀性と卓越性を目指す。
競争の機能は、社会全体とその全構成員に最も良く役立つことができる地位を、社会システムのあらゆる構成員に割り当てることである。
それは、それぞれの仕事に最も有能な人を選ぶ方法である。
軍事用語は、ビジネス活動の記述に不適当である。例えば、市場の征服という表現は悪い比喩である。
ある企業が、競争相手よりももっと良質か、もっと低廉な製品を提供する場合には、征服は存在しない。ビジネス活動に戦略があるのは、比喩的な意味においてのみである。
さらに言えば、市場経済において企業間の競争が敵対的衝突を意味しないのと同様に、いやそれ以上に、国際貿易における諸国家の間にも、農業と工業といった産業間にも、資本家と労働者といった階級(それが存在するとして)の間にも、敵対的衝突は存在しないということになるだろう。
それは諸個人がそれぞれ異なった利害を持っていて、各人の目的が両立しないとしても、人々が敵対しているわけではないのと同様である。
敵対的衝突が発生するのは、市場の枠組みの内部ではなく、当事者が暴力に訴えて相手の権利を侵害したり、政府がいずれかの当事者に特権を与えて法の下の平等に反したりした場合である。
感想
市場競争は弱肉強食で勝者と敗者が分かれるイメージが強かったですが、そうではない側面もあるかもしれないと思いました。
下記の本を參考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進