とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

自然権としての私有財産

こんにちは。冨樫純です。

 


法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


自然権としての私有財産

 


リバタリアニズムの批判者の中には、財産権というものはそもそも国家の制定する民法や商法のルールによって創設されるものだから、経済的自由と財産権は自然権といえる精神的自由とは全く違い、国家がその内容を定める規約的な権利である、と主張する人がいる。

 


日本国憲法二九条二項は「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める」とあるが、それは財産権の性質上当然のことを言っているにすぎない、というのである。

 


そうすると同条一項が 「財産権は、これを侵してはならない」というのは、法律で定められた財産権の内容を侵害してはならないというだけの当然のことしか言っていないということになりそうである。

 


しかし財産権は法律で内容をどのようにでも規定してよいものではない。財産権は国家なしには成立しないという、前提となる主張自体が間違っている。

 


このような主張をする論者の多くは法学者だが、彼らは制定法ばかりに関心を集中するために、道徳的な権利や、法的な権利でも慣習法上の権利として財産権が考えられるということを無視している。

 


自由市場で生ずる財産権は自然権である。「自然権」という言葉は多義的だが、私の主張の意味は、財産権は

 


①国家の庇護なしにも慣習法上存在しうるし、現に存在した。

 


②法はそれを尊重すべき道徳的な理由がある。

 


という意味で自然だ、というものである。

 


財産権が――いや、どんな権利にせよ天然自然の事実として存在するという趣旨ではない。

 


だからここでいう自然権とは「自然の(与えた)権利」ではなくて、 「自然に生ずる自然な権利」というくらいの意味である。

 


②の論拠はこれまで検討してきた広義の自己所有権テーゼにほかならない。

 


①の論拠についてはもう少し説明を加えるべきだろう。批判者は国家法が規定する財産権しか念頭にないようだが、「これは私のものだ」という所有権の観念や、「真剣に約束した以上、強制してでもそれを履行させる(あるいは少なくとも、損害を賠償させる)のは許される」という契約義務の観念は、国家法秩序とは独立に存在する。

 


国家の存在以前の社会でも、また国による保護をあてにできないような商取引(たとえば闇市)でも、また家族や友人間のように裁判に訴えることを全然想定していない関係の中でも、財産権の観念は効力を持っている。

 


感想

 


最後の「国家の存在以前の社会でも、また国による保護をあてにできないような商取引(たとえば闇市)でも、また家族や友人間のように裁判に訴えることを全然想定していない関係の中でも、財産権の観念は効力を持っている」と箇所がなるほどと思いました。

 


財産権は法律で定めなくもよいと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『自由はどこまで可能か』

 リバタリアニズム入門

 森村 進

 講談社現代新書

 

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