こんにちは。冨樫純です。
法哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
限定されたパターナリズム
私がリバタリアニズムの立場からも奴隷契約を認められないと考える理由は次の通りである。
短期的な労働契約と違って、奴隷契約や長期的な労働契約の場合、契約をする当事者とそれによって将来拘束を受ける当人とは、ある意味では他人といえる可能性がある。
なぜならその将来の人物は、奴隷契約を結んでしまったことを後悔して、重大な点で価値観が変わってしまっている可能性が強いからである。
すると奴隷契約は、現在の契約者とは別人になってしまった将来の当人の基本的な自由を侵害するものだから、その禁止は正当化できる。
このようなパターナリズムの限定的弁護論は、決してリバタリアニズムへのアドホックな(その場限りの無原則な) 制限と解されてはならない。
確かにリバタリアンの中には人格の時間的変化を唱える人はあまりいないようだ。
しかし私の議論は、時間を通じた個人の人格の内部でもリバタリアニズムの個人主義を徹底させ、心理的な連続性に乏しい別個の時刻の人格を、重要な意味では別人とみなしているのである。
感想
奴隷契約は、現在の契約者とは別人になってしまった将来の当人の基本的な自由を侵害するものだから、その禁止は正当化できる。
という箇所がおもしろいと思いました。
将来の当人が別人になってしまうという所がなるほどと感心しました。
下記の本を參考にしました
『自由はどこまで可能か』
リバタリアニズム入門
森村 進