とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

懐疑論とは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、倫理学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


カヴェルの懐疑論

 


カヴェルは、ウィトゲンシュタインの研究者であり、哲学における懐疑論研究の第一人者の一人です。

 


哲学における懐疑論というのは、疑い、特に存在や知識についての疑いを表明する議論です。

 


たとえば、私たちの認識の外に本当に世界は存在しているのか。私たちが眠っているとき、世界は消滅しているんじゃないか。

 


実は世界は五分前に作られたのではないのか。私たちは絶対に確実な知識というものを本当に手に入れることができるのか。私は本当に存在しているのか。

 


懐疑論というのはやっかいなもので、直観的には疑わしく感じられるものの、完全に追い払うことは非常に困難です。

 


たとえば、他人の心というものについて考えてみましょう。

 


あなたは自分以外の他人が心をもっていることを証明できるでしょうか。他人は心をもたないロボットではないと、どうして言えるのでしょうか。

 


もちろん、心理学や生物学、物理学、哲学、文学などのあらゆる知見をもって、他人にも心は存在するということのそれらしい「証拠」を提示することができます。

 


しかし、どれだけそうした「証拠」をもってきても、心自体を目の前に取り出して示すことができない以上、根っからそれを疑っている人を納得させることは難しいでしょう。

 


彼は自分以外の人間をよくできたロボットと捉え、いかに心がありそうな仕方で振る舞っていても、結局のところ、彼らは機械であってそこに心などないかもしれない、私たちは他人の心について本当に知ることはできない、と主張するかもしれません。

 


懐疑論を批判する多くの哲学者とは違って、カヴェルはこうした懐疑論に対し、それを絶対に確実な知識というものを本当に手に入れることができるのか。

 


懐疑論というのはやっかいなもので、直観的には疑わしく感じられるものの、完全に追い払うことは非常に困難です。

 


たとえば、他人の心というものについて考えてみましょう。 あなたは自分以外の他人が心をもっていることを証明できるでしょうか。

 


他人は心をもたないロボットではないと、どうして言えるのでしょうか。

 


もちろん、心理学や生物学、物理学、哲学、文学などのあらゆる知見をもって、他人にも心は存在するということのそれらしい 「証拠」を提示することができます。

 


しかし、どれだけそうした「証拠」をもってきても、心自体を目の前に取り出して示すことができない以上、根っからそれを疑っている人を納得させることは難しいでしょう。

 


彼は自分以外の人間をよくできたロボットと捉え、いかに心がありそうな仕方で振る舞っていても、結局のところ、彼らは機械であってそこに心などないかもしれない、私たちは他人の心について本当に知ることはできない、と主張するかもしれません。

 


懐疑論を批判する多くの哲学者とは違って、カヴェルはこうした懐疑論に対し、それを全も、せめる面的に否定することはできないと述べます。

 


私たちは結局のところ、他人に心が存在するかどうかを知り得ません。その意味で、私たちは懐疑論に対し、真っ向から議論を挑んで応答することはできません。

 


したがって、懐疑論者に応答するのには別の方法が必要となります。そこでカヴェルは、そもそもの懐疑論者の問いを別の仕方で捉え直します。

 


すなわち、懐疑論者らが求めているのは、他人の心の存在についての確信ではなく、世界からの応答であり、共感である、それゆえに、懐疑論者に相対するとは、彼らを承認することである、とカヴェルは考えます。

 


私は他人から隔てられている、私は孤絶している、という訴えが懐疑論の主張であり、それを乗り越えるには互いに共感しあい、承認しあうしかない、とカヴェルは考えるのです。

 


感想

 


自分以外の人間をよくできたロボットと捉え、いかに心がありそうな仕方で振る舞っていても、結局のところ、彼らは機械であってそこに心などないかもしれない、という箇所がおもしろいと思いました。

 


たしかに、よくできたロボットかもしれないと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『「倫理の問題」とはなにか』

 メタ倫理学から考える

 佐藤岳詩著

 光文社新書

 

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