こんにちは。冨樫純です。
独学で哲学を学んでいるので、勉強してきたことを整理する感じで書いていきたいと思います。
哲学者を1人ずつ取り上げて、その思想、時代背景、感想などを書いていきます。
取りあげる哲学者や思想は、ほくが勝手に選んでいます。
哲学者 アダムスミス
思想 フェアプレイの精神
18世紀のヨーロッパでは、市民革命を通して経済活動の自由を手にした市民たちが、資本主義のもとで利益を追い求めた。
アダム=スミス〈1723~90〉 は「諸国民の富」(「国富論」)を著し、一人ひとりの個人が利益を追求する自由な経済活動が、「見えざる手」に導かれて産業を活性化し、社会全体の富を増やすと考えた。
経営者は利潤を得るために、買い手が望む商品を市場に供給し、買い手がつかない商品は市場から排除され、市場によって淘汰されて、豊かな商品と富が国に満ちる。
スミスは自由主義経済の利点を生かすために、 経済には政府の介入をひかえ、できるだけ自由な市場にまかせるべきという同時に、スミスはそのような自由な競争は、第三者の他人の目(公平な観察者)からみても共感を得られる、公正なものでなくてはならないと説いた。
相手の動きを観察する競争者たちが、たがいに対して公平な観察者となり、競争が公正に行われているかをチェックする。
人間の自由な行為は、公平な第三者が共感し得る範囲のものでなければならない。
背景
そもそも、西洋はキリスト教圏であり、基本的には利己心は悪いものだと考えられできた。
だから、神から地位を与えられた特権階級はともかくとして、商人などの個人が、自分の欲望を満たすためにお金儲けをすることは、基本的には卑しいことであった。
そのことは、聖書にもはっきりと書かれている。
金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい。
ようするに「絶対に無理!ありえないからー」と言っているのである。
日本においても、「士農工商」という順番で、職業身分があったことを思い出してもらえばわかるだろうか。
もともと「士農工商」は、孔子の儒教の思想であるが、つまり東洋においても、「商(自分のためにお金儲けしてる人)」は、「農(みんなのご飯をがんばって作ってる人)」よりも身分の低い人間だとされてきたのである。
なぜこういった「商護視」の思想が、東西を問わずに存在しているのか?
それは、「商の活動(利益の追求)」を抑制しないと以下のような問題が起こると考えられてきたからである。
個人である「商」があまりに富を蓄積しすぎると、権力者を脅かす存在になりかねない(経済的支配者の誕生)。
みんながお金持ちになりたいからと「商」ばかりを目指して、「農」をやめてしまうと穀物の生産量が低下して、最後にはみんなが飢えて国家が破綻してしまう(農業の崩壊)。
感想
「見えざる手」で有名なスミスですが、商人などの個人が、自分の欲望を満たすためにお金儲けをすることは、基本的には卑しいことであったという背景があったという点がおもしろかったです。
下記の本を参考にしました
新 倫理 清水書院(高校の教科書)
倫理資料集 第一学習社
『史上最強の哲学入門 』
飲茶著
河出文庫
『もういちど読む山川倫理 』
小寺 聡編
山川出版社