とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

本当の自由とは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


どういうときにほんとうに自由なのか

 


一般的にいって自由とは、自分の意志にしたがった行為が何の拘束も受けずに可能になるような状態のように理解されている。

 


しかし、ちょっと考えればわかるとおり、何の条件づけや限界もなしの行為など現実には不可能だ。

 


とくに何らかの組織と関わる現実の人間関係は全く平等な関係というよりは、上位―下位という権力的関係と「ほんとうの私」との関係して現われることが多い。

 


これまた誤解されていることが多いのだが、自由は一切の拘束のない、したがって上位―下位関係のいところにしか実現することができないものではない。

 


このように理解してしまうと、現実の生活のなかには自由はどこにもないことになる。

 


われわれは現実の生活のなかで、ある場合にとても自由を感じ、ある場合にはたとえそれが同じような状況でも、とても抑圧を感じたりすることがある。

 


その違いは何か?

 


いろいろな制限と義務的関係を伴う人間関係のなかで、それでもなお自由を感じることができるのは、以下の条件が整っている場合であると考えられる。

 


一つは、しかるべき義務的行為を果たさなければならない時間や責任の範囲、そして自分の権限の範囲などが明確に輪郭づけられていること。

 


その結果、自分が果たすべき役割が明確になり、そこからの距離も取りやすくなる。

 


二つ目のポイントは、とくに上位下位関係においては上位の者が下位の者に対して、彼が「いま・ここ」の役割的関係以外の側面ももっていることをそれなりに配慮しつつ、当の役割的行為の遂行を期待している場合である。

 


そこには、「いま・ここ」の役割にもとづく限定的な相互関係における出会いでありながら、社会内的関係の背後にある社会外的側面に対する、ある一定の態度の取り方の重要性が見受けられるのだ。

 


そして、こうした心的態度こそは、これまでの日本の企業社会の倫理規範に照らせば否定されてきたことだといえる。

 


いま、私が引いた例を読んで即座に「学生のアルバイターにはそうした配慮がなされるかもしれないが、いったん社会人ともなって働けばそうした配慮などなされるはずもない」と感想をおもちの方もいるだろう。

 


しかし、私の考えによれば、「いま・ここ」の社会的側面のみを重視し、個人の社会外的側面を視野の外に置くことを強要してきた日本的企業倫理が、仕事と生活をめぐるさまざまな歪みをもたらしていると考えられるのだ。

 


つまり企業の論理からすれば、自分の社員が家族をもち、仕事以外のさまざまな活動の可能性をもっていることはいわば視野の外のことになるのだ。

 


しかし、実際は人間の「生」の活動はジンメルのいうとおり個人のうちの「社会の要素ではない」側面が、「社会の要素」たる彼の活動の「積極的な条件」を為しているのだ。

 


そうした関係に目をつぶってあくまで「社会内」人間としての振る舞い方を期待していることが、今日の我が国の職業人が抱えているさまざまな精神的危機をもたらしていると思われる。

 


有無をいわせぬ転勤命令、世界の先進国のなかでも群を抜いている残業時間の多さなどさまざまな側面で企業社会は、ジンメル的表現を用いれば「企業人たるもの100%社会内的存在たれ!」という暗黙のスローガンの下で動いてきたように思う。

 


そういえば私の恩師の一人は、私が大学院生だったころ、私たち大学院生に対して「院生は勉強する機械たれ!」と檄を飛ばしてくれていたのだが、やはり「機械」にはなりきれない自分がそこにはいた。

 


家族生活の危機や地域社会の解体などが、マスコミを賑わすいろいろな事件が起こるたびに指摘されている今日、最も根本的な問題は、企業社会の倫理が、他者との円滑なつながりを成立させるためのこの第二の条件を無視するような力として作用してきたことによるような気がしてならない。

 


感想

 


企業戦士的な働き方は、ぼくはできないし、したいとも思いません。

 


自由を求めているということだと思います。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジンメル・つながりの哲学 』

   菅野 仁

   NHKブックス